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僕が今この場所にいる理由!

2015年に父が亡くなり、考える事が増えたある日、サラリーマンだった僕は友人やSNSでクリエイティブに活躍している人達を羨ましくみていました。
その時、強烈な言葉を自分に投げかけました。

「僕は今まで生きてきて何か残せているのか?」

考えても浮かんでこない現実に恐怖すら覚え、一体自分は何をしてきたんだと後悔していました。
無駄ではないけど無駄な時間を過ごしてきたと感じました。

「生きた証を残したい」

その瞬間に僕は、
「職人になりたい」
頭の中はその言葉で埋まりました。
小学生の頃からずっと職人に憧れてたのに、流れに身を任せてきた人生にケリをつけ、会社を辞めて僕は職人になる事を決断したのです!
では何故機織りなのか?
僕の好きな事の中で唯一ブレない好きな事は、お洒落でした。そこで思ったのです。
この服の生地はどうやってできてるんだろうか?知りたい。
昔の人はどうやって生地を作っていたのか?知りたい。
そこをたどった末に『機織り』に行き着きました。

45歳という年齢から目指すのも悪くないし、長生きできれば、まだ遅くないとポジティブに考え学べる場所を探しました。

先ずは近場で検索すると、いきなりヒットしたわけです。地元にあったんです!
「柳井縞」という聞いた事もなかったワードです。
どうやら柳井市は江戸時代から続く機織りの産地でもあったらしいのですが、大正時代にはすたれていき消滅しました。
そのなくなった「柳井縞」を復活させたのが、柳井縞の会でした。
これは機織り職人になれるんじゃないかと、直ぐに連絡をすると、機織りを学ぶ学校もやっている事が判明したので、その場で申し込んで3ヶ月後に入学した訳です。

僕は柳井市と言っても実家は離島でしたので、朝早くにフェリーに乗って通いました。
学校ではとにかく実技オンリーでしたので、短期間で機織りの技術を学ぶことができ、無事に卒業してからは、機織りに必要な道具を揃えて即起業しました。
しかし当然仕事なんかありません。
営業も、自分で織った反物を持って呉服屋周りをしましたが、全く相手にしてもらえず直ぐに見切りをつけ、SNSでの発信に力をいれました。
初めての依頼もSNSからでした。当時は駆け出しで未熟でもありましたので、実際にお会いできる人に限定し、
「僕の今できる織りはこういう感じです。それでも良ければ安く織ります。」
と受注をとり、数をこなす事を重視しながら副業としてやっていました。
(機織りだけでは生計はたたなかったです)
織りの技術やデザインのクォリティが上がるにつれ、工賃も上げていき起業して4年目に本業へと昇格する事となりました。
この時49歳です。
しかし相変わらず不安定な斜陽産業の中にいる機織りですから、起爆剤が必要です!
そんな時に夢を語るTV取材が入りました。
その取材の中で僕は、
『坂本冬美さんの着物を織り、着てもらいたい』
と大それた夢を放ったのですw
ディレクターさんもローカル局にはハードルが高すぎるので、「もうワンテイク身近な夢の撮影も良いですか?」と言われ、最後に撮影して終了しました。
しかし言葉は時として届くものです。
なんと坂本冬美さんと繋がり、番組に坂本冬美さん自身からビデオレターが送られてきました。

「是非、久冨さんの織られた着物が着てみたいです!」

その模様が放送された時にTVの前で僕は、
「マジか!僕の名前を冬美さんが言ってるし、夢が叶うじゃん。」
と素人丸出しで喜んでいました。

言葉にしてみる事の大事さを初めて知った瞬間です。
それからは坂本冬美さんの着物を織る企画になり半年間で6回にわたり放送され、最終回の生放送では、サプライズで僕がデザインして織り上げた着物を着て坂本冬美さんが登場し、共演させていただきました。
とにかく現実なのかコレは、、、と収録が終わっても夢の中でした。
この企画で僕の人生に転機が訪れました。
仕事の依頼や有名なバンドメンバーとのコラボや俳優さんからの着物の依頼など、充実した毎日を送る事になるのです。

コロナ禍にも関わらず順調に仕事が入って来るようになりました。
決して裕福ではありませんし、仕事にも波はありますが、生きた証は日々残せています。
この先がどうなるかは全く分かりませんが、53歳になった今、機織りを続けられています。
それが僕にとって1番大事です!
『生きた証』残せています。

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