テラスハウス事件:悪いのは山里亮太でも「匿名インターネット」でもなくリアリティー・ショーだ

一応、立場を明らかにしておく。私は所謂「リアリティー・ショー」と呼ばれるものが個人的に大嫌いである。今回問題にしたい「テラスハウス」は一切視聴していないし、それ以外の様々なリアリティー・ショー、とくに恋愛などにかかわるものは、その内容が耳に入るだけでイラついてしまう。これは客観性のない、全く個人的な好みの問題だ。だから、中立性の観点から、本当はあまり書きたい内容ではない。

しかし、本件に関わり、人命が失われていること、のみならず、その全責任を、「匿名インターネット」「SNS」の誹謗中傷とか、出演者である山里亮太氏個人になんとか擦り付けようというさまざまな流れを観測し、流石に納得がいかないため、この文章を書いている。

断言するが、今回の事件の第一の責任は、「テラスハウス」制作会社、放送したメディアが負うべきである。無論それだけではない。「リアリティー・ショー」の存在やありかたを自由の名のもとにまったくの不問としてきたという一点において、我々の社会にも重大な責任がある。ゆえに、まず社会に可能な責任のとり方は、「リアリティー・ショー」のあり方自体を批判し、各メディアの倫理委員会などで審査をしてもらうことだ。さらに必要ならば、メディアは結果に従って自主規制すべきだ。法規制はその後だ。

とはいえ、いきなり全面禁止すべきとか、そういう安易なことを言っているわけではない。むしろ、類似番組のファンであり、存続を願っている人たちや、利害関係者こそ、まず番組の構造自体を批判すべきだ。それが結局は信頼と表現の自由につながる。

これが、私個人の好悪ゆえの提言ではないことを、以下で納得していただけると信じる。

論ずるのは次の4つである。

・一部で言われる「誹謗中傷の取締強化」は言論の自由の観点から危険であり、かつ同類事例の再発防止の観点から見ると、効果が薄い。

・山里氏の発言は、なんとか番組を取り巻く構造を壊さないようにSNS上の「攻撃」をやめさせようとした結果であり、ゆえに免責の余地は大きい。しかし、そもそもその構造を作り出したのは番組自体である。

・以上より、再発防止のため、表現の自由として第一に制限するべきは、こういった構造を自らの利益のために作り出している制作会社およびメディアの自由である。

・インターネット上の「誹謗中傷の取締強化」は単独で非常に重要な論点なので、個別の事件で反応するのではなく、慎重に検討すべきである。そうしないと、不信を生み、それが表現の自由を毀損する。

1.「誹謗中傷の取締強化」がなぜ間違っているか

まず、本章で私が言いたいのは、「誹謗中傷の取締強化」をするな、ということではない。ただ、本件の再発防止として、「誹謗中傷の取締強化」を持ち出すのは明確に間違っているという事実だ。

まず、誹謗中傷を取り締まることはできても、なくすことなど不可能だ。もしあなたがどこかのSNS運営会社に務める機械学習の専門家で、完全なる安全ネット言論のために日夜努力されているなら、謝罪しておく。ただ、それは結局は言論弾圧社会に移行するだけではないか。

私は法の専門家ではないが、ごく常識として、ある発言を誹謗中傷として制限できるのは、発言がなされ、それに対し訴訟などが起され、その結果としてだけなはずだ。

無論、匿名の場合、それに発信者情報開示のコストがかかるため、訴訟はしづらいのは確かだ。しかし、発信者のプライバシー、通信の秘密、表現の自由の観点から見て、「他人の権利の侵害をしない限りに置いては」無条件に開示すべきではないはずだ。いずれにせよ、それは法による手続きの後であって、前ではない。

そして、これらの手続きの簡素化は、「正当な」批判自体も萎縮させる。政治家、大企業が社会悪と化したとき、通信の秘密を守って批判できる匿名インターネットは強力な武器になりうる。そこまで大仰なことを言わなくても、私人で不当な発言をしている人間を見かけたら、まず第一にはその発言を批判すべきだろう。それがすぐさま訴訟合戦になるならば、公論とは、言論の自由とは何なのか。

訴訟はコストがかかる。そして批判を受けるのは普通、権力を持っている側、発言権が有る側である。ゆえに常に経済力や政治力を持っている側に有利である。手続きを簡素化してもその方向は加速するに過ぎない。そもそもこのデメリットが有るから、言論の自由は制限し難い。

そして、現行法下において、誹謗中傷は対応可能である。手続きが簡素化したからと言って、状況が劇的に改善するなどありえない。結局同様の「炎上」事件が、次なる犠牲者を出すまで続く可能性は高い。

さらに、これが論点にならないのは非常に不思議なのだが、「正当な批判」の形式を逸脱しない範囲で人を「傷つけ」「攻撃」することは全く難しくない。

例えば、次のような「状況」があったとしよう。

Aさんが、高価なコスチュームを洗濯機に入れたまま外出。

Bさんが、それを間違った洗濯で縮め、損壊してしまう

Aさんは激怒、批判にとどまらず、Bさんがフリーターであることなどをあげつらい人格批判。

これが事実だとか事実でないとかは論点ではない。架空の話としてもよい。

言いたいのは、私はAさんの発言を以下のように「批判」できるということだ。

「Aさんの発言は単なる批判ではなく、人格批判であり、誹謗中傷である。また、フリーター一般への差別につながりかねない。わたしもフリーターであるため、深く傷つけられた。仮にAさんの本心であるなら撤回し謝罪すべきである。後日あらためて、損害賠償請求も検討する。集団訴訟の可能性もある」

これは、誹謗中傷ではない。単なる論評、そして権利の行使だ。だがこれが、仮に大勢の実名の人間から押し寄せた時、Aさんは傷つき、恐怖しないのか?そんなことはないだろう。

問題は番組内の発言を個人の責任に押し付ける、番組の構造それ自体だ。「演技」という壁を取っ払ってしまったために、直接言論で「攻撃」する大義名分が生まれてしまう。誹謗中傷は必ずしも関係ない。

以上より、芸能人が言論で「叩かれ」「傷つく」ことを防ぐために、一般の言論の自由を制限するのは、危険であり、かつ効果は薄い。

2. 山里亮太氏の発言は「号令」ではなく「攻撃の一時停止」の呼びかけだった

山里亮太氏の「問題発言」を引く前に、「テラスハウス」の置かれた文脈、「リアリティー・ショー」自体の構造について興味深い記事がある。

まず、テラスハウスは2014年に一度終了しているようである。以下にそのときの様子を「終了の理由」という論点から考察したコラムを引用する。

私はこの筆者である木村隆志氏というコラムニストを詳しく存じ上げない。検索で上の方に出てきたので読んだだけだ。しかし、重大な論点が書いてあると思ったので引用する。

ではなぜ『テラスハウス』は、否定的な人が多かったのか? その答えはリアリティショーにはあるまじき、「リアリティがほとんど感じられないから」だろう。家、服、会話、海、仕事風景など、映像にはキレイなものしか映さず、恋愛も友情も仕事への姿勢ですら感情表現は乏しく、どこか軽さを感じるシーンが多かった。つまり、リアリティショーに不可欠な人間くささがなく、なかでも最大の見どころである「対立や裏切り」は全くなかったのだ。

そう、リアリティー・ショーに求められている「リアリティ」は、結局は「対立や裏切り」だ。エンタメとしての人間関係の不和。それも、芝居ではなく、「本当の」不和が最大の見所である。

これが足りなかったため、一度終了した。ではその後、一体何を「売り」に再出発したのか。過剰な「対立や裏切り」ではなかった、と言い切れるだろうか?

無論、それは演技だとか、台本が有るに決まってる、などと言うこともできる。まあそれは半分事実だろう。だが、それをなんと言って、どういうラベルを付けて売ったのか。

奇しくも、山里亮太氏の「問題発言」がテキスト上で確認できるのは、noteというこの素晴らしい媒体の、Netflix公式アカウントである。対談形式で、やや長いが、詳しい文脈は原文を読んで頂きたい。

──パトロールするうえでは、住人のSNS事情も見逃せないですよね。メンバー内でブロックしてると視聴者から指摘があったり。SNSで酷評されているのを見て落ち込むメンバーが出てきたり。                                                     山里:そう考えると、僕たちは視聴者の皆さんと一緒に楽しんでる感じですね。ただ……最近はネットのみんなが敏腕すぎて、噛みつくタイミングが早くなってきているように感じるかも。                                                            ──噛みつく?                                                                                                       山里:ネットで視聴者の方が噛みつくんですよ。炎上じゃないけど。    YOU:そうするとね……住民が演じだしてつまんなくなっちゃうから、これは……亮太から世界中の人にお願いだね。                                                          山里:ネット上で噛み付くのをちょっと待ってほしい。もっと住民を褒めて、慰めて、応援して、あなたが正しいと言って泳がせて……熟成させて……最後の最後に調子に乗りまくって妄言をはきまくっている中で、僕と一緒に噛みついてほしい(笑)。                                                                                  SNSでの安易な攻撃はしないで、一緒にこのハウスを肯定的に捉え続けるっていう目線で楽しんでほしい気持ちもあります。プロレスもそうじゃないですか。「この技くらい避けられるでしょ」と斜に構えて見るより「すげーな……!」って観戦してるほうが楽しい。それで踊らせて、調子に乗せて……ね。                                                                                                                     YOU:亮太の「GO」を待ってください。                                                         山里:「今だー!!! やれーーー!!」って、 噛みつく号令かけますので!(笑)

これが、演者への「攻撃」を煽った行為である、とされて、山里氏は一部の人々から激しい批判を受けている。

残念ながら、この手の批判を全くの不当として却下することはできないだろう。すくなくとも、言葉の上では、「攻撃」を楽しむこと、「号令」に従って一斉攻撃をすることを、番組の楽しみ方として推奨、あるいは当然の前提としているとしか思えないからだ。

そして実際、先程の記事から見ても、「不和」を楽しみ、「不和」にあれこれ文句をつけるのは、「リアリティ・ショー」自体の需要、大きな存在理由だ。これを否定することは演者としてはできない。

そしてこれを否定せずに、なんとか「攻撃」を緩めようとした時、こういう言い方しかできないのだ。「攻撃」自体は当然の権利だし、普通の楽しみ方だけど、それを一旦待ってくれ。みんなの「楽しみ」のために。これ以外、番組を否定せずに攻撃を弱める手段は存在しない。

そもそも攻撃をやめろよ、とか、他人の不和を眺めてあれこれ言うのは悪趣味だぞ、とか、そもそもこれは全部ブックがあるんだから、熱くなって騒ぐんじゃない、などと言うことは、どう考えても番組自体の趣旨の否定だろう。その悪趣味を楽しむ番組なのだから。そうでない、などという言い訳は却下する。

無論、悪趣味も趣味のうちではある。悪趣味だというのは私個人の感想だ。だから直ちにそれをどうこう言うつもりはない。

山里氏は、自身の手腕、つまり視聴者の空気のコントロール技術に自身があったはずだ。「号令をまて」発言により、一時的に視聴者の「攻撃」を緩め、それを番組やシーズンなどが終わるまで引き延ばせば、無事に切り抜けられると思っていたのだろう。

だが失敗した。失敗の帰結については改めて述べない。尊い人命が失われたという現実を、あとになって細かく描写しても虚しいだけである。

とはいえ、「攻撃」を緩めようとして失敗したわけで、結果責任を個人に負わせるというのはおかしい。あくまで番組の構造、それが原因である。

3. 問題解決のため制限すべき自由はなにか?

さて、ここから述べるのは、ごく当たり前の筋論にすぎない。本件のような事件が起きる可能性を減らすため、最低限の「自由の制限」をするべきとしよう。第一に制限するべきは、何の自由か?

こういった番組を作り、放送する自由を一部制限するべきである。

当然だろう。

本件は誰が何のために起こした?どういう結果になった?

どう考えても、制作サイドとメディアが金稼ぎのために「危険で悪趣味」な番組を作り、攻撃を煽り、その結果人が死んだ。それが事実。それがなぜ、正当な批判の自由を削りかねない言論規制に直結するのか?大概にして頂きたい。まず最大の受益者、原因である制作サイドとメディアの責任を問う声がなぜこんなにも小さいのか。特に有名人、芸能人からは全くと言っていいほど聞かれず、判で押したような匿名ネット批判、誹謗中傷批判ばかりだ。

本気で死者を、犠牲者を、傷つく人を減らしたいと思っている人間の発言がそれでいいのだろうか?真面目に考えているのだろうか?疑問を通り越してやや恐怖すら感じられる。

そもそもリアリティー・ショーやマスメディアが前提としている、現実の不和や対立をエンタメとして消費していいという価値観、発信してきたメッセージへの批判、なぜそれが巻き起こらない?それこそが病理ではないのか?

不和、なんて堅苦しく書いてきた。だが要するに、他人の喧嘩を眺めて野次馬し、誰かを馬鹿にして楽しむ娯楽だろう。それは自由だ。まあそれは認めてもよい。だが、そんなものと引き換えになぜ批判の自由が削られるのか?

今回明らかになったのは、匿名インターネットの闇などではない。そんなものはとっくに明らかだった。

Netflixなどの新興ネットメディアを含む、マスメディアの危険性と、病的なまでの自己批判能力の欠如。これが、今回白日のもとに晒されたものだろう。

4.「表現の自由」批判

とはいえ、「誹謗中傷の取締強化」という論点は、本件の「解決策」として持ち出さなければ、一定の理はある。

匿名インターネットには様々な非対称性がある。開示システムが複雑であることは、一部有名人にとっては不利に働く。

これは確かに事実だし、だからこそ賛同者も多いのだろう。芸能人や、一部国会議員からの提案があったことからも伺える。

ただし、それゆえに危険である。これは言論の自由に関わる重大論点であるため、単なる「世論」の傾きだけで議論の方向性を決めていいような話ではない。

もう一度書くが、「言論の自由」はあらゆる問題に置いて非常に重要である。だからなるべく制限されないよう、法律が設計されている。

完全なる自由はもちろん危険だ。だが、だからといって安易な規制に飛びついた場合、体制批判が不可能になるなど、非常に危険な状況に陥る可能性がある。法規制は基本的に体制側と経済的に強い側に有利だ。

いま私には、本件をもとに「誹謗中傷の取締強化」を叫んでいる人々がやっているのは、悲劇をテコにした大衆扇動にしか見えない。もしくは、それに対する脊髄反射的な「反応」である。そこには真剣な思考、議論がない。デメリットに対する考察が欠けている。重大な論点を扱っているという恐怖心が見られない。正義のためだからという情熱のみが感じられる。ゆえに、危険だ。ぜひ立ち止まって、考え直して頂きたい。

とくに、芸能関係者が「誹謗中傷の取締強化」に飛びつくのは、自らの権益、つまり悪趣味な番組で稼ぐ自由を保持したまま、その結果責任を全ての市民にかぶらせようとする動きではないか、という疑念が湧くだろう。私は、それを庇うことはできない。

こういった疑念こそが、真にマスメディアの表現の自由を奪う原因、つまり不信だ。法的な自由は、人々の不信があれば、究極的にはすぐに制限されてしまう。それを避けるために、なるべくフェアに、危険な論点に飛びつかず、まず自己批判から始める。それがリアリティーショーも含めた、様々なエンタメや報道の自由を本当に守ることのできる、信頼の源泉だ。

表現の自由は、規制するべきである。ただし、慎重に、不平等さを避けて、最小限に規制するべきである。今回明らかになったのはマスメディア批判の不在なのだ。これを認識せず、マスメディア批判を避ける人には、少なくとも、表現の自由という重大論点を扱う能力が欠如している、と批判させていただく。

まとめは最初に行ったため、これで終了する。


最後になってしまいましたが、木村花さんに、哀悼の意を表します。

以下追記

コメント欄で、リアリティーショー自体が原因ではなく、ネットリテラシーの国民的低下を「主因」とするnote記事をご紹介いただいた。

だが、この方のように、倫理やリテラシーなどといった、操作・測定困難なものを安易に「原因」にしてしまう態度、これこそが不信につながると私は思っている。

ならば、同様の番組を作る際には、関係者とファンが全国民に倫理教育を課してくれるとでも言うのだろうか?無論、彼らにそんな能力も権利もないことは明らかである。他人の権利の法規制?それこそが危険だ。

これは単なる責任逃れにしか見えない。こう思うのは私だけではないはずだ。すくなくとも、批判の自由という究極の表現の自由をを危険にさらしてまで、彼らの大好きな趣味に関する表現の自由を守り抜く動機など一切ない。

自分の大切なものが危機に陥った時、まっさきに「他者」を攻撃する発話に飛びついてしまう。ある意味では仕方がない。しかしそれを繰り返した後、勝利するのは「多数派」だけだ。あなたが、自分を多数派側だと信じて傲慢な行為をすることを、止める手立てはない。だが、その考えの結果、一度少数派に落ちてしまった時、もはや誰も助けてくれない。

ぜひ、考え直して頂きたい。


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