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理由がないのが正解。大人が冒険を始めるとき

心はすでに決めている。

なんでかわからないけれど、決めている。

理由なんか考える前に、決めている。


子どもの頃は、隣町へ行くだけでワクワクしてたし。

大きな公園を見つけてはワクワクしてた。

なんでワクワクするのか? って考える前に、走り出していた。


心が向くことには、なんの理由もない。

なんの根拠もない。

何もないのが正解。


でも、私たちの頭は理由を求めたがる。

自分の心に言い訳をしたがる。

世間と照らし合わせてどうかってことを確かめたがる。


そうしないと不安だから。

自分の心はオカシイのじゃないかと、とても心配だから。

だから必死で考えるんだ。


そして、あれこれ考えて、やっと理由が見つかってスッキリしたとき。

答えが見つかって安心したとき。

そのときは、頭がやっと、心に追いついたとき

心は、初めから何も変わってないんだ。


だから、頭と心が一致することは、ない。


頭は常に、世間を向いているから。

ハタから見ると、どうなんだろう? ってことを確かめたがるから。

常識に沿っているんだろうかと考えるから。


あなたが心のおもむくままに生きていたあの頃。

たくさんの人に抑えつけられた。

命令され、指摘され、矯正され続けた

家庭では叱られ、学校では問題児扱いされ。

だから、どうしたらいいかの処世術を、頭で考えるようになったんだ。

心に従うと、また叱られるから、怖くて仕方ない。


頭で考えることのほとんどは、叱られないかどうか。

孤立しないかどうか。
常識的かどうか。

迷惑かけないかどうか。


叱られないために、孤立しないために、「やるべき理由」「やるべきじゃない理由」を必死に探し求める。

自分の心に必死に抵抗し始める。

その、自分の中の「頭と心の戦争」に疲れ果てたとき、人はウツになる。


頭と心が一致することはないんだってことを理解する必要がある。

一致するのではなく、頭が心に寄り添おうとしてあげること。

「考えるな、感じろ」という言葉は、そういう意味なのだと思う。


自分の心の声に耳を傾ける。

世間的な頭で、正当化しなくてもいい。


「心のままに生きていい」のは、大人の特権なんだ。

あの頃は叱られた。でも今は、叱られない。


大人って、思ったよりも自由だよ。

子どもの頃がよかったなんて、大嘘だよ。


私たちはみんな、心のままに生きていける。

頭が、心に寄り添い始めたとき、大人の冒険は始まる。


頭で考えるのは、他人を説得したいとき。

他人に理由を説明しなきゃいけないとき。

他人の共感を得たいとき。

頭で考えて、自分の心の説明をする。

それが、頭と心の役割分担。


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