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たき火の思い出③

「幸せな詩を描こう」

そう決めて創った曲でした。
20代の旺盛なリビドーの時期に
男女間の無茶苦茶ハッピーな
ポジティブな言葉だけを使った
詩を描くことは
出来ませんでした。

でも、僕自身の
平均的で、普遍的だと想える生い立ちには
多少、100%の感謝を注ぐことが出来ました。

ところでどうして
人は(僕は)ネガティブな思考に
陥ってしまうのでしょうか?

ネガが陰なら、ポジが陽。
陰と陽でひとつ。
視点を変えれば
陰と陽は入れ替わる。
そこにはエネルギーの運動が生まれる。

この「たき火の思い出」は
ネガティブな詩ばかり書いてきた自分に
飽き飽きしてきたから。

という、ネガティブな発想なんです。

ネガティブな詩ばかり歌って、
ネガティブな批判されたり。
終いには
ネガティブな人に
ポジティブに支持されて、
なんかネガティブ中毒者のコミュニティに
落ち着いている・・・。

なんか嫌だなぁ。と
ネガティブになって、
「ポジティブな詩を描こう!」と
決心したのです。

あの頃の仲間は、僕は、
今の僕からしてみたら
「家」「ホーム」みたいなもんです。

時々、あの頃の仲間と出逢います。
あの頃の感じの人と出逢います。

僕のように
自由自在になれた人、
まだ「どこにでも行けるんだよ」
ということに気付いていない人には
暖かく見守りつつ、
動くのは彼らだし、
僕は自由に動くので、
お互いまだ元気な処で出逢いたいなぁ
と願っています。


じつはこの「たき火の思い出」、
一番最初の発想は
ネガティブだったんです。

「たき火」にはこの詩のような
ポジティブな思い出があります。

たき火って大好きなんです。
ところが90年代の終わりに、
「ダイオキシン」なるものが発言され、
それを口実に、
たき火が違法化されてしまいました。

そりゃ火事の心配や、煙の匂いを不快に感じる人も
いるでしょう。
もちろん「火事」は物質的な破壊につながるし、
煙も、ビニールとかを燃せば
実質的な害をもたらすでしょう。

でも・・・
たき火が「犯罪」と位置付けられてしまうなんて・・・

この憤り、
ネガティブな衝動が、
この「幸せな詩」を描かせたんです。

当たり前にあったものが
有り難くなったとき、
はじめてその「有り難さ」に気付く。

でも、
それじゃぁ遅いよな。

有り易く有る現実って、
有り難いことだよね。

有り易かった現実が
有り難くなってしまったおかげで、
ちょろちょろと間を縫うように
まだともし火の残る
この田舎の地に
たどり着いたのかもしれない。

でも、だから、
有り難い現実に感謝寄せるより
有り易い現実が奇跡であることに
感謝したく想うんです。

たき火云々は
攻撃対象を「社会」とかに
すり替えることができるけど
やっぱり「時」は
留まってはくれないよね。

僕も子どものまま留まることは出来なかった。

だからやっぱり
「有り難い」っていう事実は
仕方のないことなんだよね。

まとまりのない文章になってしまいました。
でも、
普段、僕がいつも考えていることです。

「僕はダメだぁ!」
「世の中はダメだぁ!」
そんな憤りのパワーを活力に。

僕には何が見えているのか。
「それ」がダメだと感じてる僕は
何をダメだと感じているのか?

本当に宇宙的視点に立ったら
「ダメ」なことなんて何もないのに
何の存在を境に
それを「ダメ」だと決めているのか?

それを「悪い」とするのなら
「良い」と決めていることは
何なんだろう?

裏と表の関係だから
わかり易いよ。

裏と表を併せて見れば・・・
それが僕らの今の現実なんだよね。

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