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出逢ってしまった「自分」を連れて

自分がもし、若い時代のどこかで
男性なのに男性にときめくという
アイデンティティに出逢ったとしたら…

これは
僕自信が、それに該当しないから
ちょっと距離を置いて
マイノリティの性質について
考えるための例えです。

そして、
この感じを
自分自身に映して考えてみると、
「自分は〇〇です」
とカミングアウトしないのは、
「そうではないから」
だとも想うのです。

その名詞で括られた世間の概念が
ポジティヴであれ
ネガティヴであれ、
その僕自身のアイデンティティの
本質をついているのかと言われたら、
「そんなことはない。」
と、否定したくなるのです。

だって一人ひとり
違うじゃないですか?

自分は
「L」なのか?
「G」なのか?
「B」なのか?
「T」なのか?
「Q」なのか?

それ、
括れないでしょう?

*************

でも、
漠然とした自分のアイデンティティに
名前を付けるのは、
とても頼りになる知恵だとも
思います。

ドレミファソラシドの音階の名前だって、
ドとレの間にも音は存在するし、
ド#とレの間にも
音は存在する。

それでも
ドとレと名付けた音の間に在る音
として、その都度名前を付けたら、
言葉を用いない前より
混乱しないかもしれません。

ド#とレ♭も
実質現代では同じ音だけど、
内包されている意味が違うから。

込められた意味を理解した上で
一言の単語で言えてしまうのは
とても便利な道具を
人間は持ったものだなぁ
と思います。

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そして、
頭の理解「分かる」より
在るが儘を感じること。

これも重要な
共に生きる意義だと
思っています。

こうしてnoteで言語化する時間もありつつ、
どっちも行き来出来るがいいね。

*************

あれでもなくて、
それでもない。

唯一の感覚を、
普遍で誰もが持っている感覚であると
確かめたい。

だから僕らは
アートを、
「表現」に挑戦するのだと想います。

作品の「解説」でも、
「キャッチコピー」でも、
「タグ」でも「題名」でもなく、
「本当のところ」を伝えたくて
作品を創るのです。

*************

この作品の深さは
作者がゲイだからなんだ。

子どもの頃、虐待を受けて、
逆境をバネに成功を収めたんだ。

etc

そりゃ、いろいろあるでしょう。
いろいろあったと感じる現実感が、
今の表現欲求や、
努力のモチベーションに
一役買っているのは
事実でしょう。

いや、
その孤独なアイデンティティこそが
表現欲求の根幹かもしれないね。

*************

でも、
自分が若い時代のどこかで、
他人とは違う「自分」という
アイデンティティを見つけたとき・・・。

そこに氣づく前の
幼い日々があったに違いない。

小2の息子と共に、
学童のおじさんをしていて、
1〜6年生の子ども達を眺めながら
ぼんやりと思ったことを
今、書いています。

*************

低学年の子ども達にも、
もちろんいろんな個性の子達がいる。
持って生まれた個性や、
親に似たのか、家庭環境で芽生えたものなのか。

いろいろ持ち寄って、
そして個性は影響し合い、
交換されながら、
流動的に変わってゆく。

「成長する」と呼んでもいいのかもしれない。

いろいろありつつ、
概ね仲良く成長していく。

でも、
どこかで誰もが何かと出逢う。

それがマジョリティ傾向なら、
わざわざ冒険などせず、
「みんなと同じ」道を歩むだろう。

でも、
感じてしまった
出逢ったその氣持ちが、
「みんな」とは違う感覚だったら
どうだろう?

*************

きっと、
セクシャルマイノリティに属する人たちの悩みって、
「恋の悩み」とは
別のところにある悩みなんだろうな。

恋をしてしまった
その人とどんな関係を結ぶかの悩み。
それはどんな人にでもあるわな。

そこは混同しないようにしよう。

*************

問題は・・・・
自分のアイデンティティについて
ですよね?

はい。

そこについて、
2年生の息子を見ていて
想ったのでした。

*************

親のせいなのか、
暗に親が促しているのか。

少人数の学校だけど、
ちょっと何かあって
孤立しちゃう日もあるみたいで。

それでもまだ「そこ」には
来ていない息子を見つつ、
何らかの「それ」に出逢ったら、
もう「みんな」と足並み揃える必要は
ないんじゃないか?と。

独りぼっちを恐れて、
ずるずると「みんな」と同じに
足並み揃えていたら、
せっかく
生まれて、生きる人生の価値を
無駄にしてしまうんじゃないかな?

なんて想ったのでした。

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世代、時代の「犠牲」
と呼んだら、
それこそ尊重する人生の価値を貶めて
しまうかもだけど、
両親を見て、
ずっと繰り返されて来た人類の祖先の
歴史を見て、

やっぱり
「風潮」なんかに
自分の「感じてしまった感覚」を
預けるのは
もったいない。

そう想うのです。

預けても、
世間様は
有効利用してくれないっすから!

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集団の中で「独りぼっち」に
なってしまったとき、
そんな「独りぼっち」になってしまうくらい
他人とは違う「何か」を見たとき、
それは貴方が
独りで進む「道」なんだと想う。

そのいっときの「独りぼっち」から
逃れる方法は、
そんな出逢ってしまった「自分」と共に
歩みを進めること。

そのアイデンティティを「自分」と
するんだったら、
その「自分」で「世」に
触れるしかないじゃん。

カミングアウトすればいいとか
そんな短絡的な話じゃない。

その「アイデンティティ」を
大切に表に現し、
輝かせてほしい。

だって、
他の人にとっては
氣にもとまらないことかもしれないのに
僕は、あなたは、
それを氣に留めてしまったのですよ!

見過ごしてもいいのに
見過ごさなかった。

見過ごせなかったのは誰だ?

僕だ!

*************

誠実な「自分」で触れる世界は
極めて楽だよ。

*************

けっきょく、
こんな長文書いてる途中から、
「この詩歌ってたら
それでいいのにな〜」
などと思った曲を、
最後貼り付けて
本日のnote
閉めさせてもらいます。

うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。