『マチネの終わりに』第七章(3)
五人の審査員中、蒔野は最年少で、必ずしも発言が多かったわけではなかったが、彼のその指摘が、結果を左右したことは明らかだった。
蒔野は、いやいや、と小さく首を振ると、慎みからというより、何となく居心地が悪そうに、フカヒレのスープを少しすすって、ナプキンで口を拭った。そして、疲労と緊張とで表情が解れない入賞者たちに、急に何かを思い出したように喋り始めた。
「今朝そう言えばさ、――ちょっと時間があったから、ホテルの周辺を軽く散歩してたんだよ。そしたら、前からハッとするようなものすごい美女が歩いて来て。何て言ったらいいのかなあ、スカーレット・ヨハンソンとリン・チーリンを足して二倍にしたような。」
「二倍!? そんな人、いるんですか?」
向かいに座る若いギタリストの一人が、少し笑って目を見開いた。
「いたんだよ、それが。モデルか、女優か、……一般人じゃないだろうな。――で、その彼女の残り香がさ、また何とも言えない、いい匂いだったんだよ。深く吸い込むと、クラクラしそうなくらい。つけたての香水じゃなくて、ほのかに彼女自身のからだの匂いが混ざってるみたいで。」
「あとを追わなかったのか?」
スペイン人の審査員の一人が、にやっと笑って話に加わった。しかし、蒔野はそのさして意外でもない、からかい混じりの問いかけに、一瞬、不意を打たれたような顔をした。そして、すぐに気を取り直して続けた。
「いや、そこまでは、……ま、とにかく、しばらくその彼女の残り香に包まれながら、朝の散歩を楽しんでたんだよ。けど、なんか妙に強い香水で、歩いても歩いても、通りにその匂いが残ってるんだよね。振り返っても、もう随分と離れてるのに。屋外でこの調子なら、部屋の中だとどうなるんだろうなんて思いながら、まぁ、でも、美女の香りならみんな喜ぶのかなとか考えたり。――で、さすがになんか、おかしいって気づいたんだよ。」
「……ええ。」
「で、ちょっと、早足で歩いてみたら、匂いが薄まるどころか、追っかけて来るみたいに濃くなるんだよ。」
「?」
第七章・彼方と傷/3=平野啓一郎
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