『マチネの終わりに』第六章(73)/第七章(1)
二週間経ったある日の午後、蒔野の許には、洋子から一通のメールが届いた。極短い文面で、リチャードという名のかつてのフィアンセと縒りを戻し、結婚したと書かれていた。
蒔野は茫然として、しばらくパソコンの画面の前から動くことが出来なかった。
引き裂きかけたまま残していた彼女への思いを、よくやく胸の裡で最後まで裂いてしまった。その苦痛に、どう耐えるべきかはわからず、せめて彼女を憎むことさえ出来るならばと真剣に願った。
◇第七章 彼方と傷(1)
二〇〇九年の夏、蒔野は、新たに審査員を務めることとなった、台北国際ギター・コンクールのために、一週間ほど台湾に滞在していた。
元々は、祖父江誠一が審査員を務める予定だった新設のコンクールだが、丁度、二年前に脳出血で倒れて以来、今もまだリハビリ中であるために、自然な流れとして、蒔野に白羽の矢が立ったのだった。
年齢的にも実績に於いても、彼が審査員を務めることには異論がなかったが、業界誌では、インタヴュー付きのちょっとした記事になっていた。と言うのも、蒔野はこれまで、どれほどコンクールの審査員を乞われても、国内外を問わず、頑なに辞退し続けてきたからだった。
今回は、祖父江の推挙もあり、断れなかったというのが本人の弁だったが、年齢が態度を軟化させたのに加えて、どうも、金に困っているらしいとも囁かれていた。
無理もなかった。二年前に《アランフェス協奏曲》と《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》という二枚のアルバムを発表して以来、蒔野は、表だった演奏活動を一切、止めてしまっていたからである。絶賛を博した二〇〇六年秋のあのサントリーホールでのコンサートを録音した前者は、レコード・アカデミー賞を受賞し、後者の表題曲は、ウィスキーのテレビCMに採用されて評判となっていた。しかし、販促のためのコンサートは行われず、リサイタルだけでなく、客演、共演のかたちでさえ、彼の姿を舞台で目にすることはなくなっていた。
第六章・消失点/73=平野啓一郎
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