『マチネの終わりに』第七章(28)
あどけない体のラインながらも、男性的な骨格と筋肉の付き方が、今からはっきりと見て取れた。
ケンにはよく、「ほら、わたしのかわいいダビデ君」と、からかうようにして日本語で話しかけた。ケンは、そう呼ばれると、まるで意味がわかるかのように、たどたどしく声を出して笑った。
ケンの二度目の年越しを、リチャードはタイムズ・スクエアのカウントダウン・イヴェントで迎えたがったが、前日に、そのタイムズ・スクエアで不審車騒動があり、洋子は難色を示した。外は氷点下で雪も積もっていて、ケンに風邪を引かせたくないというのがその理由だったが、それだけでなく、正直に自動車爆弾テロに対して、自分はまだ恐怖心が強いからと打ち明けた。
「大丈夫だよ、もうすっかり元気なんだから。」
リチャードが、洋子のPTSDに関して、面倒くさそうな態度を示したのは、この時が初めてだった。
リチャードは、休暇で一日中、家に閉じ籠もっていて話題が尽きたのか、出し抜けに、しばらく洋子の前では避けていた仕事の話をし始めた。年明けにも、顧問を務めていた金融機関が、連邦住宅金融庁から提訴されそうだというので、彼はその準備に忙殺されていた。
何も違法行為はしていないし、商品の説明も十分だった。今起きている事態は、褒められたものではないが、学者としての自分の仕事の範囲内では、何の責任もないとリチャードは改めて洋子に理解を求めるように説明した。洋子は、それについての態度を保留したままで、ただ、
「あなたは、それでいいの?」
と尋ね返した。
リチャードは、その一言というより、その時の洋子の目に、突如、感情を爆発させた。決して厳しく責め立てるわけではなく、むしろ、彼の人間性そのものを映し出そうとするかのような曇りのない瞳だった。彼女に対するほとんど憎しみに近い反発が、心中でわだかまっていたあらゆる感情へと延焼し、彼自身も、手が着けられなくなってしまった。
第七章・彼方と傷/28=平野啓一郎
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