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『マチネの終わりに』第七章(10)

 ただもう、自然に忘れるに任せて、洋子のことは考えないようにしていた。彼女の急な心変わりに対しては、「なぜ?」と問う気持ちが長く尾を引いたが、早苗との結婚生活にその反復を持ち込むことは不誠実だった。今、意味があるのは、洋子に愛されなかったという事実ではなく、早苗に愛されたという事実だった。

 思いがけず長引いて、抜け出せなくなってしまっている音楽活動の休止に、蒔野は絶えず焦燥を感じていた。それは折々、身悶えするほどの苦しみで彼を苛んだが、にも拘らず、ギターを手に取るという、その単純な、唯一の解決方法が、無限に遠く感じられた。

 しかし今、不用意に蘇ってきた幾つかの懐かしい洋子の記憶は、彼に自分の現状をいよいよ耐え難く感じさせた。

 蒔野は、武知が口を噤んだ折を見計らって、また日本語で語りかけた。

「良かったら、今度、一緒に何かやらない? 俺も、具体的な目標があった方がいいし。足手纏いにならないように、それに向けてがんばって練習するからさ。」

 武知は、蒔野の思いがけない真剣な、それでいて、どことなく気弱な申し出に、口の中に入れたばかりのチャーハンを飲み込みながら、反射的に頷いた。

「うん、やろうよ! 蒔ちゃんとは、今まであんまり一緒にやったこともなかったし。蒔ちゃんとのデュオなら、レコード会社もCDを出してくれるよ、きっと。」

 武知は、幾らか自虐的に笑って見せたが、先ほどのような皮肉は感じなかった。蒔野は、彼のその屈託のない瞳に、改めて、いい男だなと感じながら感謝して言った。

「そこまでの話になるかどうかはわからないけど、とにかく、やってみるよ。簡単じゃないとは思うけど、気づいたこととかさ、教えてよ。信頼してるから。」

     *

 ニューヨークのトライベッカにある豪勢なペントハウスで、洋子は、もうぬるくなってしまった飲みかけのマティーニのグラスをテーブルに置き去りにして、ソファに移動した。リチャードは、彼女が席を立つのに気づいたが、あとは追わなかった。


第七章・彼方と傷/10=平野啓一郎

#マチネの終わりに


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