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『マチネの終わりに』第七章(49)第八章(1)

 早苗は、動揺した様子だったが、すぐに笑顔になった。そして、フライパンの火を止めると、蒔野と向かい合った。

「――子供が出来たの。病院に行ったら、三カ月だって。」

 蒔野は目を瞠った。

「いつわかったの?」

「一週間前くらい。コンサートの準備に集中してるから、せめて初日のあとに言おうかと思ってたんだけど、あー、言っちゃった。」

「そっか。……ごめん、気がつかなくて。」

「ううん。わからないもの、まだ見た目では。――喜んでくれる?」

「くれるも何も、喜んでるよ! ちょっと、びっくりしたけど。そっか、……良かった。」

「じゃあ、わたしとこの子、二人分抱きしめて。」

 どことなく不安げに打ち明けた早苗を、蒔野は気遣いつつ抱擁した。

 人生が、また一歩、先に進んだことを感じた。そして、昨夜以来、再び昂じていた洋子への未練を、彼は今度こそ断ち切らねばならないと自らに言い聞かせた。

 今日のコンサートは、この生活のためにも成功させなければならない。――蒔野は、胸の内で呟いた。

 ◇第八章 真相(1)

 洋子とリチャードの離婚を巡る話し合いは、アメリカでの通例に従って、双方が弁護士を立て、裁判所を挟んで進められた。

 洋子は、別れたいというリチャードの意思を理解し、この三年にも満たない短い結婚生活を終わらせることに同意した。彼が一足飛びに、離婚まで決意していたことには気がつかなかったが、ヘレンの存在を知って納得した。単なる不倫の相手というのではなく、リチャードは彼女と再婚するつもりだと打ち明けた。動揺がなかったと言えば嘘になるが、洋子は彼の裏切りを咎めなかった。

 唯一の懸念は、ケンの親権だった。リチャードの説明では、離婚後も共同親権制が採られるアメリカでは、家庭内暴力といった特別な事情がない限り、どちらかが親権を独占することはあり得ないらしく、実際に、洋子自身が調べ、担当弁護士に相談したところでも同様の回答だった。

第七章・彼方と傷/49 第八章・真相/1=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

コメント2件

「八章・真相」・・・あぁ、ドキドキする。願わくば・・・
この章でもう一度、蒔野と洋子が会うことができるんでしょうか?
それがどういう再会になるのか。とっても気になります!
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