『マチネの終わりに』第八章(18)
この日も朝から強い日差しが照りつけていて、洋子は汗ばみながら、急いで当日券売り場に向かった。襟元の大きく開いたボーダーのシャツに、膝丈の白いコットンのスカートというカジュアルな格好だったが、メイクには時間をかけた。しばらく短くしていた髪は、また少し伸ばすつもりだった。
窓口に並ぶ者の姿はなく、却って不安だったが、空席を確認すると、辛うじて二席残っていた。
「よかった! じゃあ、一枚ください。」
ほっとしつつも、洋子は、蒔野との再会を俄かに現実として実感し、少し胸が苦しくなった。チケットには確かに、「蒔野聡史」という名前が印刷されている。
チケットを財布にしまって窓口をあとにすると、洋子はすぐ後ろに、妊婦が一人立っているのに気がついた。当日券を求めにきたのだろうか? あと一枚は残っているはずだと、傍らを通り抜けようとしたところで、
「――洋子さん?」
と声を掛けられた。
驚いて顔を上げ、一瞬、間があった後に、洋子の眸は張りつめた。
「蒔野です。」
と、相手は名乗った。
「覚えてます?――以前に一度、サントリーホールでお目にかかりました。あの頃は、旧姓の三谷で蒔野聡史のマネージャーをしてました。二年半前に結婚したんです。」
洋子は、声を失って、無意識に、もう一度彼女のお腹に目を遣った。
「六カ月なんです、今。やっと子宝に恵まれて。」
「そう、……おめでとうございます。男の子? 女の子?」
「女の子です。」
早苗の笑顔を見ながら、洋子の脳裏には、あの晩のスペイン料理店の記憶が蘇ってきた。彼女と会ったのは、その一度きりだったが、勿論、忘れられない人だった。
「今日のコンサートのチケット、買ってくださったんですか?」
「ええ、……丁度、長崎の実家に帰省してて、コンサートの情報を見たから。」
「結婚されて、ニューヨークにお住まいだって、伺ってましたけど。」
「……ええ。」
第八章・真相/18=平野啓一郎
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