『マチネの終わりに』第六章(67)
伊王島のホテルまで車で行く道すがら、洋子の母は、運転しながら唐突にこう言った。
「リチャードと復縁したら?」
洋子は、レイバンのサングラスの隙間から、ちらと覗いているその目を覗き見た。もう昔のように、海外生活の長い日本人らしい、目尻をキュッとつり上げた濃いアイラインの引き方はしなくなっていた。
「彼のこと、嫌いになったわけじゃないんでしょう?」
「そんなこと、出来るわけがないし、そのつもりもないの。もう終わったことだから。」
「もう、あなたのタッジオもいなくなってしまったんでしょう? いつまでもヴェニスにいても仕方がないじゃない?」
洋子は、怪訝そうに母の横顔を見つめた。
「わたし、その話した? 〈ヴェニスに死す〉症候群?」
「お父さんから聞いたのよ。」
「連絡取ってるの?」
「あなたのこと、心配して連絡してきたのよ、ちょっと前に。」
「そう、知らなかった。――お父さんが言ってたのは、そういう意味じゃないの。わたしがイラクに行ったことを言ってるのよ。本来の自分に立ち返ろうとして、破滅的な行動に走るというのは、間違ってるって。」
「あなたの場合、恋がいつの間にか、そうなってたんじゃないの? あんないい話をぶち壊しにしてしまうなんて、十分に破滅的よ。」
洋子は、母のそういう皮肉な口ぶりが好きだったが、今はそれに対して、何も気の利いた返事が出来なかった。
携帯電話の電源は、実家に滞在している間、ずっと切ったままだった。そう決めていたのだったが、再び電源を入れることが、今では怖くなっていた。
帰国後、自分の生活の場所に落ち着いて、何かあっても隣の部屋からジャリーラが駆けつけてくれるという状態でなら、改めて自分の気持ちを整理して、蒔野にメールを書くことが出来るかもしれない。何日かかってもいい。何度も書き直して、自分の思いを正確に伝えたい。こんな親指一本で済ませてしまうのではなく、机についてゆっくり考えたかった。
第六章・消失点/67=平野啓一郎
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