『マチネの終わりに』第八章(20)
向かい合って座ると、しばらく沈黙が続いた。
目の前に、蒔野の子供を宿した女が一人座っている。洋子は、かつて自分が、どれほど強くそれを夢見ていたかを思い出した。そして、彼が結局は、別の女性を愛し、今も愛しているというだけでなく、自分自身の年齢的にも、それはもう、不可能な願いとなってしまったことを自覚した。時の流れを感じ、その辛さに耐えられなくなって、
「話って、何かしら?」
と水を向けた。
早苗は、話の端緒を掴めないまま、カップに手を掛けていたが、促されて急に快活な表情を見せると、澄んだ眸で洋子を見つめた。
「わたし、……中高と、私立のミッション・スクールに通ってたんです。」
意外な切り出しに、洋子は、「……ええ。」と曖昧に応じた。
「洋子さんって、クリスチャンですか?」
「いえ。」
「わたし、キリスト教って、よくわからないんですよねー。授業でいつも聖書を読まされましたけど。特にあの、……マルタとマリアっていう姉妹の話、ありますよね?――イエスが家に来た時、姉のマルタは、彼をもてなすために一生懸命働いてるのに、妹のマリアはただ、側に座って話を聞いてるだけ。それで、マルタはいらっとして、イエスに、妹に手伝うように言ってくださいって訴えるんですよね。そしたらイエスは、庇ってくれるどころか、マリアの方が正しいって言うでしょう!?」
「……『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』……」
洋子は、イエスの言葉を、その意味を噛み締めるようにして引用した。早苗は驚いて声を上げた。
「すごい! 聖書を全部覚えてるんですか?」
「まさか。色々と問題になる箇所だから。」
「それでもそんなにスラスラ言えちゃうなんて、……あれって、どういう意味なんですか? 洋子さん、おかしいと思いません?」
第八章・真相/20=平野啓一郎
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