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『マチネの終わりに』第七章(17)

 あなただけは、純粋無垢な美しい人間だって、どうして信じられるのかしら? 誰も文句のつけようがないような正しいことを主張するのって、気持ちがいいでしょうけど。そこまで行くと、わたしたちとあなたと、どっちが厚顔か、もうわからないわね。だったら、おあいこってことでいいじゃない?」

 ヘレンは最後まで、まるでナイーヴな高校生でも諭すような口調だった。洋子は、その居直った態度にますます腹が立ったが、決して感情的にならないところには感心して、どちらかというと、こちらの人間性を見られているような居心地の悪さを感じた。

 そして、リチャードに対する指摘には、返す言葉もなかった。それが、昨年来の夫婦の口論の最も深刻な理由だった。

 当のリチャードが、二人の会話の雲行きを察知したのか、顔色を変えて洋子を迎えに来た。

「十分に楽しんだ? そろそろ、失礼しようか。ケンのベビーシッターは十一時までの約束だから。」

 立ち上がると、洋子は、とろんとした目で夫婦を見送るヘレンに挨拶をした。リチャードは、強張った笑みを浮かべて彼女を見ていたが、

「心配しなくても大丈夫よ。女同士のたわいもない話だから。」

 と言われて、洋子の背中に手を回し、帰宅を促した。

 

 チェルシーの自宅まではタクシーですぐだったが、リチャードはそわそわした様子で、さりげなさを装いながらも、先ほどの二人の会話の内容を知りたがった。

「目新しい話じゃないの。――あなたが喜ばない話よ。」

 洋子は、そう返事をしたが、思わせぶりな言い草が自分で嫌になった。

「あなたの仕事についてのわたしの誤解を、彼女が正してたのよ。」

 リチャードは、それを聞いて、意外にも安堵の色を窺わせた。もう何度となく口論していて、いつしか互いに蒸し返さなくなったその話題に、リチャードは気が緩んだようにやや不用意に触れた。


第七章・彼方と傷/17=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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