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『マチネの終わりに』第七章(32)

 一年半もギターに指一本触れていなかった蒔野は、復帰までには、最低でも一年は必要だろうと慎重に考えていた。早苗と結婚した後、木下音楽事務所の担当は、五十嵐という若い男性社員に変わっていたが、蒔野の復帰に関しては、社長も直接に関与していた。勿論、グローブの野田もミーティングには必ず出席した。

 準備期間が短すぎるという不満を、蒔野は、日程が提示された直後から訴えていたが、現実を語っているつもりでも、口を衝いて出るのが、一々、「出来ない」という否定的な言葉ばかりなので、仕舞いには、自分でそれにウンザリしてきた。

「僕が例えば、ジャズ・ギタリストみたいなアドリブの世界の人間なら話は別ですよ。コンディション次第で、弾けないフレーズは無理に弾かなくていいんですから。けど、僕はクラシックの世界の人間ですからね。曲の中のどんなフレーズでも弾けるようにしておくためには、一定以上の水準で自分を維持してないといけない。フィギュア・スケートの選手が、調子が悪いから、トリプル・アクセルをダブル・アクセルにするみたいなことは出来ないんですよ。……いや、わかってるとは思いますけど。」

 担当者らは、そうまで言われると、二の句が継げずに黙り込んでしまった。蒔野も、しばらく腕組みしたまま口を噤んでいたが、やがて、腹を括ったように息を吐くと、

「ま、いいや。――やりましょう、じゃあ、その日程で。」

 と、急に態度を変えて一同をぽかんとさせた。

 そのあとも、しばらくはぶつくさ不平を言っていたが、そういう姿には、むしろしばらく見なかった彼らしさが感じられた。ひょうげたような話しぶりだったが、一度舞台に立てば、きっとまた、恍惚とするほど完璧な演奏を聴かせることだろう。彼の復活のためには、一つの吉兆のようだった。

 一年半というのは、蒔野だけでなく、周囲の演奏家も誰も経験したことのないブランクの長さだった。


第七章・彼方と傷/32=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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