『マチネの終わりに』第八章(27)
そして、洋子はもう一度、心の中で呟いた。――なぜなのかしら?……
早苗に尋ねたいのではなかった。もっと漠然とした、運命的なものに向かって、洋子はただ当てもなく問うていた。
早苗が話を終えてからも、洋子はしばらく、口を開くことが出来なかった。彼女を見つめていた目を力なく手元に落とすと、氷が溶けて薄まったコーヒーではなく、水のコップの方に手を伸ばした。早苗は、中身をかけられるのではないかと怯えた風に、一瞬、身構えた。洋子は、その挙動に気がつき、コップを少し傾けて、表面張力で丸みを帯びた水の縁に目を留めた。そして、やるせない表情で早苗を見返すと、
「それで、……あなたは今、幸せなの?」
と低い声で尋ねた。早苗は、きっぱりと答えた。
「はい。すごく幸せです。」
洋子は、彼女の顔をつくづく眺め、腹部に視線を落とした。そして、また顔を上げると、「蒔野さんは?」とは訊かないまま、小さく頷いた。
バッグを開けると、洋子は、一時間ほど前に買ったばかりの今日のコンサートのチケットをテーブルの上に置いて、早苗の方に差し出した。
早苗は、驚いて彼女の言葉を待ったが、やがて慌てて、自分のバッグを手に取り、財布を取り出した。洋子は、それを制した。
「あなたの幸せを大事にしなさい。」
洋子は最後に、ふしぎなほどに皮肉な響きのしない、親身とさえ感じられるような穏やかな口調でそう言うと、早苗を残して店をあとにした。
予定外に早く宿泊先のホテルに戻ると、母とケンは、まだ外出先から帰っていなかった。
洋子は、一人きりの部屋で、絨毯の床に崩れるようにして膝を突くと、シーツが取り替えられたばかりのベッドに突っ伏して、ようやく、誰憚ることもなく号泣した。
*
蒔野と武知とのデュオは、追加公演の最後を郡山で締め括って、好評のうちにツアーを終えた。
第八章・真相/27=平野啓一郎
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