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『マチネの終わりに』第七章(5)

「ううん、コンクール会場にいたよ。空港から直行して、荷物があったから、終わって一旦ホテルにチェックインしてきたんだけど。」

「そうだったの?――今回は、ありがとう。急なお願いだったのに、申し訳ないね。」

「こっちこそ、ありがとう。なかなか海外で演奏する機会もないし、めっちゃ楽しみにしてる。蒔ちゃんの代役が務まるかどうかはわからないけど。」

「いやいや、みんな喜ぶよ。俺はこんな体たらくで面目ないけど。」

「最近、どうしてたの? 心配してたよ。」

「ああ、……ギターはもう一年半くらい弾いてないんだよ。触ってもない。」

「え?」

 昔から生真面目を絵に描いたような武知は、もっとくだらないことまで含めて、蒔野の話に、いつも素直すぎるほど素直に驚いた。蒔野は、彼のそうしたナイーヴさが好きだったが、あまり深刻な顔をされると、急に取り残されたような孤独を感じるものだった。子供の頃に人が傷つきやすいのは、何かにつけて友達に驚かれるからだろうと、蒔野は思った。

 三日練習を怠るだけでも、どれほど指が動かなくなるかは、ギタリストなら誰でも知っていることだった。一年半もギターに触れていないなどと言えば、再起は難しいのではないかと考えてもおかしくなかった。実際、武知だけでなく、台湾に来てから会った他のギタリストらも、多かれ少なかれ、そうした懸念を表情に過ぎらせていた。先ほどの選評に対する賛辞にも、幾らかは慰めや励ましの意も込められているのだろう。

 蒔野は、

「まあ、積もる話もあるし、座ろうか。」

 と椅子を詰めて、彼のための場所を作り、店員に食器や箸の一揃いを頼んだ。

 ビールを注ぎ、軽く乾杯すると、武知の方から口を開いた。

「今日は三谷さんは?――ああ、もう三谷さんじゃなくて蒔野さんだけど。昔のクセで、ついそう呼んじゃいそうになるね。早苗さんって呼んだ方がいい?」


第七章・彼方と傷/5=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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