見出し画像

『マチネの終わりに』第七章(46)

 自分はこれまでの生真面目な人生の中で、それほどの罪は犯していないはずだった。今後も犯すことはないだろう。自分の罪が飽和するには、まだ随分と余裕があるに違いない。長い人生の中で、ほんの一瞬の出来事だった。ただの出来心。それが果たして、自分という人間の本質だろうか? この先ずっと、人並み以上に善良に生き続けるのであるならば、あのたった一つの罪にも、目を瞑ってもらえるのではあるまいか? そういう自分は、必ずしも蒔野が愛している三谷早苗と懸け離れているわけではないのではあるまいか?

 早苗にとって予想外だったのは、蒔野の音楽的な不調が、むしろ洋子と別れてから一層深刻になり、到頭、演奏活動そのものをも止めてしまったことだった。

 手足口病の後遺症も完治し、もうすっかり両手の爪が生え替わったあとでも、蒔野はギターを手にしようとはしなかった。勿論、そのことを尋ねもしたが、「少し時間が必要なんだよ。」と言葉少なに言うだけだった。気分を変えようとしているのか、普段は会わない人に会ってみたり、ふらりと一人旅に出たりしたが、一度、もうかなり秋も深まった頃に、唐突に輪島に出かけてしまった時には、早苗は虫が知らせたように大騒ぎして、呆れられたことがあった。

 孤独に藻掻き続けている蒔野を見守りながら、彼女は、本当は、自分こそが負うべきだったはずのあの罪の報いが、一種のお伽噺的な手違いによって、夫の身に降りかかってしまったような動揺を覚えた。

 だからこそ、武知とのプロジェクトのために、蒔野がまたギターの練習を再開したことは、早苗にとってほとんど“赦し”を与えられたかのような喜びであった。

 蒔野は、早苗が冷房のスイッチを入れた音で目を覚ました。

「ごめん、起こしちゃった?」

「……今何時? ああ、もうこんな時間か。」

 蒔野は、明るい窓の外に目を遣って、汗ばんだ体に吹きつける天井からの冷気を心地よく感じた。窓が大きいので、初夏でも明け方はかなり暑くなる部屋だった。


第七章・彼方と傷/46=平野啓一郎

#マチネの終わりに

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?