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『マチネの終わりに』第七章(48)

 そのどこかで、ほんの少し何かが違っていたならば、世界は今のような姿をしておらず、自分は洋子と出会うことなく、そもそも二人は、存在さえしていなかったのかもしれない。

 蒔野は、自分がどんなに洋子を愛していたかを、改めて思った。

 そして、寝つかれない夜更けの不用意な、軽はずみな内省から、今でもどんなに愛しているかを強く感じた。

 恐らくそれは、彼自身が音楽家としての自信を回復しつつあるからであり、まさにそのために、酷く不安だからだった。

 自分の演奏を、いつの日か、また洋子に聴いてもらいたいと、蒔野は別離後、初めて思った。そして、そうした心境にまで辿り着けたことを喜んだ。その反面、今の不安を彼女に打ち明けたかった。他の誰でもなく、彼女に聴いてほしかった。

「焦げ臭いけど大丈夫?」

 蒔野は、早苗の声に我に返って、慌ててトースターを止めに行った。パンは既に黒焦げだった。

「あー、またやってしまった。」

「いつも、何分回してるの?」

「……適当。」

「ええ!?」

「五分くらい回して、丁度いい頃に見に行ってる。」

「聞いたことなーい、そんな人。そのトースターなら、三分弱で十分。そしたら、余熱まで含めても焦げることないから。」

 早苗は、呆れたように言った。マネージャー時代から、蒔野のどことなく抜けたところはよく知っていたが、結婚してからは、彼に代わって、彼女がその話で人を笑わせることも少なくなかった。

 蒔野があの夜、タクシーの中に携帯電話を忘れてしまったのも、その対処法がわからず早苗に電話を掛けてきたのも、いかにも彼らしい失敗だった。その話だけは、蒔野は決して冗談の種にしたことがなかったが。

 蒔野は、早苗の指導に苦笑しながら、パンを取り出すために菜箸を取りに行った。指先を火傷したくなかった。そして、卵を割っている彼女の手をじっと見て、

「ちょっと痩せた?」

 と尋ねた。振り向いた顔を見ても、やはりそう感じた。


第七章・彼方と傷/48=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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