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「税金は戦費調達のための手段だった」

 20年前に税法を勉強した時、「戦後の平和憲法(第9条)をもつ国家になるまでは、日本も戦争を契機として税金が定められてきました。」と習いました。しかし昨年2022年12月16日(金)の税制改正大綱では、「防衛力強化に係る財源確保のための税制措置」については、法人税・所得税等の増税が予定され、2024年以降の適切な時期で講じられるとされています。・・・時代は変わりつつあります。

 歴史を振り返っても、もともと税金は戦費調達のための手段として使われてきました。昔から税と権力は切っても切り離せない関係でしたし。ところで今の税制はいつ誕生したのでしょうか?おそらく社会科の教科書で、戦後のシャウプ勧告が、戦後日本の税制の出発点となったと説明されていることで間違いありません。でも昨今、防衛力強化のお話がニュースでも出てきています。戦後の歴史だけではなく、明治以降に目をやる必要がありそうです。
 そこで下図①を提示させて頂きます。所得税法(1887年)は日本国憲法(1946年)はおろか、大日本帝国憲法(1889年)より2年前に誕生していたんですね。ちなみに民法も明治から存在する法律で有名ですが1896年。大日本帝国憲法(1889年)より後の法律です。
 「なぜ所得税法が、民法や大日本帝国憲法より前に存在したのか?」これから将来の税を考える上で、理解しておくべき内容と考えましたので、日本の税の歴史、特に明治時代を中心にじっくり説明していきます。

図①:所得税法(1887年)は大日本帝国憲法(1889年)より前に誕生していました。

1.まるっと「日本の歴史と税」を振り返る

1-1.日本の税の始まりは邪馬台国

  日本では、邪馬台国の時代から税が始まったと言われています。今回は、税の視点で日本の歴史を見ていこうということで、①飛鳥時代、②奈良・平安・鎌倉・室町時代、③安土・桃山・江戸時代、そして④明治以降、と4つの時代に分けて、一気に(まるっと)日本史を振り返ります。
 税の仕組みは、歴史の転換期に大きく関わってきます。その時々の支配者・政権が、どれだけ税を効率的にあつめられるかによって、権力を守れるかどうかが決まったと聞いたことがあります。税と権力は、切っても切れない関係なんですね。

図②:日本の税の始まりは邪馬台国。税の視点で4つの時代に分けて、見ていきましょう。

1-2.日本の税の仕組みが確立した飛鳥時代

 日本で本格的な税の仕組みが確立されたのは、飛鳥時代。701年、大宝律令の制定によって、国の役所の仕組みが整えられ、都に税が集められるようになりました。この時代は、土地も人民も全て国家のもの、つまり天皇のものであるという、「公地公民」の考えが採られていました。 
 律令制度のもと、満6歳以上の男女に口分田という土地が与えられ、租庸調という税が課せられたのです。口分田は一代限り。持ち主が亡くなると国に返す決まりになっていました。これを『班田収受の法』と言います。

図③:大宝律令の制定により、税の仕組みが整えられました。

1-3.租庸調は重たい・・・公地公民の限界が来た!

 では租庸調について、もう少し詳しく見てみましょう。現在の消費税率と比べると、3%という租の税率は軽いように思えるかもしれません。しかし、庸・調は自分たちで都まで運ばなくてはならず、地方に住む人々にとって重い負担でした。加えて、労役という土木工事などの労働や、兵役も課せられました。
 せっかく口分田という土地が与えられたのにも関わらず、重い税負担に耐えられず、他の土地に逃亡する農民も相次ぎました。こうなると、田んぼは荒れ果てるばかりで、税も集まりません。

図④:重い税負担の租庸調と労役。

1-4.公地公民からの大きな転換!墾田永年私財法

 困った朝廷は743年、墾田永年私財法という法令を出し、自分たちで新たに開墾した土地であれば、開墾したものが永久に所有できるように改めました。これまでの公地公民からの大きな転換です。これによって自作農は増えたのでしょうか?
 ところが、新たに開墾しようとした農民は僅か。開墾できたのは財力のある貴族や寺社だったのです。こうして開墾された土地は、平安時代には荘園と呼ばれるようになります。農民は、貴族や寺社が所有する荘園の領主に、夫役や年貢という形で税を納めました。
 
 平安時代後期になると武士の台頭。鎌倉時代以降は武士の時代が続きます。室町時代後半になると、農民が武装蜂起し、高利貸しの業者や寺院を襲う土一揆が広がりました。

図⑤:墾田永年私財法によって、公地公民からの大きな転換を迎えます。

1-6.土地支配の大きな転換!「太閤検地」

 戦国時代の後半に、土地支配の仕組みの転換期を迎えます。豊臣秀吉が新たな税の仕組みを作ったのです。秀吉は、支配地域の田畑の面積やその良し悪しを調べ、検地帳に田畑の持ち主の名前と予想される生産量(=石高)を記録させたのです。百姓から確実に税を徴収するためでした。これを『太閤検地』と言い、奈良時代以降続いてきた荘園制度は完全に無くなりました。
 
 更に江戸時代になると、五人組という相互監視制度が作られ、誰かが年貢を納めないと、村の農民たちは連帯責任を取らされました。ところが江戸時代半ばから米の収穫量が増えすぎて、米の値段が下落。年貢米による収入がどんどん下がっていき、明治時代になると、根本から税の仕組みを見直すことになります。

図⑥:太閤検地で、土地支配の仕組みの転換期を迎えます。

1-7.明治以降、今日の税制度の基盤が出来るまで

 明治政府は、様々な近代化政策を進めました。最大の目玉が税制改革で、1871年に地租改正令を出したのです。全国の土地を測量し、土地の所有者を確定するとともに、土地の値段(=地価)も決め、その3%を地租という税で納めるように変えたのでした。これにより、土地の所有者は年貢米ではなく、現金で納めることになりました。
 
 大正時代から昭和初期にかけては、戦費調達のため増税が続きました。一方で、現在ある税の仕組みが出来始めたのもこの頃です。1940年に源泉徴収制度が採用されました。そして戦後、1950年にはシャウプ勧告に基づき税制改革が行われました。この勧告の考え方は、今日においても税制度の基盤であるといわれています。

図⑦:明治時代の地租改正以降、現在ある税の仕組みが出来始めました。

2.明治時代の税制をより詳しく!

 以上の歴史説明では、所得税等の創設の背景等が中々見えないですよね。深掘りしてみましょう。・・・で、深掘りするために日本が「治外法権」と「関税自主権」で不平等な内容の条約が結ばれていた時代まで遡ります。

2-1.福沢諭吉は憲法・法律の整備を重要視した

 慶応義塾大学を創設した福沢諭吉(1835年ー1901年)は1872年に『学問のすすめ』を執筆しました。その中で「今の日本が外国に及ばないところ」3つについて語っています。下図⑧のようにイラスト図解してみました。

図⑧:「今の日本が外国に及ばないところ」とは?

 今の日本でも、①学術と②商売(経済)は依然として重要なのは分かります。例えば、ノーベル賞の日本人受賞者や日本の各国を比較したGDP(国内総生産)がニュースになったりしますしね。でも③法律が、今の日本で取り立てて重要と、取り上げられることは①②と比較してあまりないですよね。
 当時の日本では、不平等条約を解消するため、憲法を作り、民法などの法律を整備することが緊急の課題だったのです。
 1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が公布され、これ以降の約10~20年の間に、民法を始め「六法」と呼ばれる法律がようやく整備されたことで、不平等条約を解消しました。不平等条約から実に60年も経ってからのことでした。

2-2.所得税法ができた当時

 しかし冒頭でもご紹介しましたように、税法の中でも特に重要な税目である「所得税」が創設されたのは、1887年(明治20年)。大日本帝国の公布の2年前のことでした。当時の税収の状況はどうだったのでしょうか?当時は1873年(明治6年)の地租改正を受けた「地租」や、江戸時代から引き継いだ「酒税」が税収の多くを占めていました。

図⑨:当時は「地租」と「酒税」の収入が税収の多くを占めていました。

 農業収益以外の商工業収益も増え始めていた中で、税負担の均衡化を図る目的がありました。しかも当時は、海軍費を中心とした国家経費の増大があって、その財源を確保する必要がありました。

2-3.明治天皇の勅令で作られた「所得税法」

 そこで民法などの法律はもちろん、大日本帝国憲法すらできる2年前(1887年)に、「所得税法」は明治天皇からの直接の命令「勅令」で作られていたのです。相続税法もその18年後の1905年(明治)に制定されています。
 そして1899年(明治32年)から所得税の一部として課税されてきた法人税法は1940年(昭和15年)に独立の税として制定されています。

図⑩:所得税法(1887年)は大日本帝国憲法(1889年)より前に誕生していました。(再掲)

 今回、税の歴史を振り返ってみましたが、青山学院大学教授の木山泰嗣著『教養としての税法入門』日本実業出版社を参考に記事の編集をしました。
 さらに木山教授『前掲書』49ページによりますと、”日清戦争では戦費を税収入に依存せず、戦時増税はなかったのですが、戦後に増税がなされました。日露戦争の際、相続税の創設のほか、2度にわたる非常特別税法による増税がありました。第一次世界大戦、第二次世界大戦においても、戦費調達のための増税が行われました。特に顕著なのが、所得税の最高税率が97%にまでなったことです(一部著者加筆)”としています。今後も歴史から学ぶことは多いですよね。

 表紙は明治天皇の肖像写真からお借りしました。

<以上となります。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。>

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