【過去の自分】凡人九大生が苦悩を乗り越えるには
昔Facebookに投稿していた文章が下書きで残っていたので、加筆修正してnoteで出してみる。
これはおそらく大学4年生(休学2年目だから実質6年生)の頃、書いたもの。九州では有名な旧帝大の九州大学に通ってたんですが、結構十字架を背負って生きてる九大生も多いと思いますとというnoteです。
それと、周りの目はもう気にしなくていいじゃん、と励ましたいnoteです。
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小中学校でたまたま少しだけ計算が早かったり、たまたま少しだけ記憶力が良かっただけで、「将来有望だ」とか「良い大学に入ってね」だとか言われてきた。
高校や大学に入るとすぐに分かるが、自分より優秀な人なんてごまんといる。これは事実でしかない。謙遜ではなく、事実である。
しかし、世間からは旧帝大というだけで、少しだけチヤホヤされる。
本当に優秀ではないと分かっていながらも、ある意味、「優秀な私」というのを演じなければいけない。
本当の天才は、そんなことを苦痛に感じることはないが、凡人には結構辛いことである。
凡人だからこそ、凡人なりに頑張ってきた。凡人なりに努力してきた。
だからこそ、進学校に入学して、一応、九州では偏差値が高い九大にも入れたと思う。
ただし、皆さんご存知の通り、「学歴=仕事ができる」かというとそうではないことも多い。
確かに統計的には多いかもしれない(正確に調べていないが)が、仕事ができない高学歴は多く存在する。
そしてこう言われる。
「◯◯大学なのに、こんなこともできないの?」
「◯◯大学だから勉強はできるけど、仕事はできないね」
こう言われるたびに、私たち天才ではない九大生は悩み、傷付く。
何もしていないのに、勝手に評価され、勝手に期待され、勝手に傷付けられる。
そんな九大生は次第にひねくれていく、次第にビクビクしだす。
だからリスクを取りにくくなる。「できなかったらどうしよう。」
行動に移せない人になったり、高みの見物的に、安全圏から口だけ出すような人物になる。
「だから九大生は扱いにくい。」
プライドという盾をかざし、自分を守る。安全圏にいつも立つのである。
できなかった時に傷付くのは、他人からの言葉だけでなく、自分自身のこれまでの努力が失われる気もするからだ。
必死に努力して積み上げてきたものを一瞬で失うような事態は避けたい。皆そう思う。
天才ではない凡人の私たちには、その努力自体が自分自身であり、それを否定されることは自分自身が否定されていると同じことなのである。
「だから”頑固”だ。」
たとえ、周囲から間違ってると言われようが、素直に聞くことができない。
それが正しいかどうかの話ではなく、自分自身の尊厳を守るための戦いなのだ。
しかし、だからと言って、周囲のせいにして行動しないという選択は非常に格好悪い。
いい大人が、自分のプライドを盾に頑固に意地を張っているのは非常に格好悪い。
我々九大生がまずすべきことは、己を知り、認めることである。
「素直になることである。」
その一方で他人の評価の中に生きないことである。
九大に行ってるのに、仕事ができないなんて言われてもいいじゃないか
勉強ばかりしてきてダサいなんて思われてもいいじゃないか
自分より勉強ができないと思っていた人と同列に扱われてもいいじゃないか
今までの努力が水の泡になってもいいじゃないか
そんな変なプライドなんて捨てちまえ。ちっぽけなプライドに振り回され、他人の評価の中で生きることなんてやめちまえ。
過去に囚われ、そして周りの目に囚われてる生き方に満足してどうする。
嫌なら変えるしかない、変わるしかない、覚悟を決めるしかない、決断するしかない。
自分自身の人生は自分で決めるしかない。自分の人生は自分のものでしかない。
「誰のために生きる?」
まずは自分の気持ちに素直になることだ。
そして周囲の声にも素直に従おう。
勝手に傷付いてきた我々は、自ら変わることで、人生を切り開くほかない。
妥協した人生を送るのか、他人の目を気にした人生を送るのか、自分の気持ちに嘘をついたままの人生を送るのか。
自分の人生を、誰のために生きるのか。
僕は人の目を気にしながら生きるのが嫌だった。
だから、もがいた。考えた。変えた。決断した。腹をくくった。覚悟を決めた。
敵は己自身とよく言うが、本当にそうなのかもしれない。
変わりたいと切に願うなら、まずは「知る」ことから始めよう。
行動は知識によってもたらされる。勇気はその後についてくる。
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