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よく分からないルールや言葉にも意味や背景があるのではないか?

最近、改めていろんな事を学べば学ぶほど、言葉を知れば知るほど、本当に大事なものは抽象的な言葉でしか表せれない、もしくは、言葉にできないのではないかと思った。

前に、コルクの佐渡島さんのYouTubeを見ているときに、あくまで人間というのは言葉というツールを使って、それに当てはめてコミュニケーションをするしかない。言葉で表現できることなんて、世の中の1%ぐらいで残りの99%ぐらいは表現できないと。


でも、だからこそ、それをどうにか言葉というツールを使って表現しようとしているのが、言葉を仕事にしている方達なんだと思う。


企業のビジョンなんかも、非常に抽象的な言葉を使ってる会社も多いし、よくある言葉が使われることも多いけど、創業者などが描いているものを、無理やり言葉というツールを用いて表現しているからだと思う。


そして、抽象的な言葉で伝えようとすると、それは文化的・歴史的背景を理解しておかないと伝わらなかったりする。


短歌や和歌も、今の人たちが特に何も勉強せずに読むと、おそらく意味があんまり分からないと思う。それには、ルールや文化を知っていないと分からないことも多いからかなと。


そして、書きながら思ったが、タイトルの「よく分からないルールにも意味があったのでは?」という話は、そりゃそうだと自問自答してしまった。

そりゃあ、意味があるから設定されてるのであって、でも時代の変化とともに変えましょうね、という話である。


とはいえ、なぜすんなりと、じゃあ変更しましょうねとならないのかというと、昔は昔で、文化的・宗教的な背景があって、誰かの恣意的な強制力を持ったものとして作られたからではないかと思う。


また、そのルール下で長年生きていると、「それ変更すればいいじゃん」という言葉に、プライドや恥ずかしさが邪魔して、反発してしまうからではないかと。


まぁそこは置いておいて、設定されたルールの話でいくと、ぶっちゃけみんな、マナーや礼儀作法も、なぜその行為をするのかよくわかってないことも多いと思う。


例えば、人に会ったときに帽子を脱いで挨拶をする。なぜか?

少なくとも僕は、帽子を脱がないと失礼だからとしか答えられないし、なぜ失礼なのかと言われても、失礼なものは失礼ぐらいにしか答えられない


「世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学」では、一見非合理的な振る舞いをしないと、相手に礼節を尽くしていると、相手が気付かないからだと書いてあった。


それぐらい、文化的に根付いてしまっている。

その辺りは、今の学校の規則をうまく変えれない現場の話とも、実は関係してるんじゃないかと。


例えば、「相手と会ったら帽子を脱ぐなんて全然合理的じゃないし、別に脱がなくても会話もできるし、いいじゃん」と言われて、あなたならなんと返すか?


今話題の、小学校でのツーブロックの話も、以前にツーブロックにしてる児童が事件・事故に…という説明がされていたが、本当はそうではなくて、誰もツーブロックにしちゃいけない理由が、逆に分からないからではないかと。


礼儀の話と同じように、自分の言葉では説明できないから、元から決められていたルールに従っている側面も、今回の件は少し関与しているのではないかと思う。


だからこそ、本質は何か?を見極めないといけない。僕は、別にツーブロックにしてようなどんな髪型をしていようが、「学ぶ」ことに関しては全く支障がないので、問題ないと思ってる。


でも、文化やこれまでのルールから見ると、言葉では言い表せない、「人と会ったときは帽子を脱ぐ」のような、何か、理由が分からない何かが隠されているのではないかと、そう思うのです。


そして、「何かがある」という風に、何かとしか表現できない自分の無力さ、言葉の限界も感じているところでございます。


どなたか、この辺りを言語化して、バシッと解説してくれる人が出て来て欲しい…

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