【歴史】もっと評価されるべき隠れた知将、楠木正成【前編】
大阪を舞台に大活躍した武将であるが、大阪府民でも彼のことを詳しく知る人は数少ない。
時の権力者の変遷とともに、忠臣から悪党まで評価が様変わりしていった楠木正成。日本史上最高と呼ばれる彼の戦術、戦略、そして戦いの歴史を紹介していこうと思う。
まずは前半、建武の新政までの戦いを見ていく。
『赤坂城の戦い』
赤坂城の戦いで、初めて歴史の表舞台に姿を現した楠木正成。すでに彼の評価はとても高いものであった。
鎌倉幕府が、楠木正成を倒すためだけに差し向けた兵力は、なんと正規軍全4軍。
幕府の大軍に対し、籠城を選択した楠木正成であったが、基本、籠城戦は、援軍を待ち、包囲している敵方を挟撃して初めて勝利できる戦術であって、ただ籠もっているだけではなんの意味もなさない。
事実、楠木正成側の赤坂城は、急造の城であったために、20日ほどで兵糧が尽きてしまった。
赤坂城の戦いで、特筆すべきは、やはり籠城での防衛戦術であろう。城の塀を攻略しようとする敵に対し、大木や大石、柄杓を使った熱湯を使って、多数の兵士を撃退していった。
戦国時代に豊臣秀吉などの武将たちが、無理をせず、水攻めや兵糧攻めで慎重に攻城戦を行なったのは、楠木正成の革新的攻城、籠城戦術の発展によるものだろう。
結局、城は陥落したものの、自害を偽装して脱出し、楠木正成は無事生き延びることができた。試合には負けたが、勝負に勝った戦いだった。
赤坂城奪還
赤坂城の戦いの後、身を潜めていた楠木正成がふたたび姿を現した。1332年4月、楠木正成は、湯浅宗藤が守る赤坂城を襲撃したのだ。
楠木正成と兵たちは、兵糧を運び入れる人夫と警備兵を密かに倒し、自身の兵と入れ替え、トロイの木馬の如く、俵の中に武器を入れ、なんなく城内へ侵入を果たた。そして、内と外で鬨の声を上げた。驚いた湯浅宗藤と守備兵は大混乱。一戦も交えることなく湯浅は降伏した。
銀河英雄伝説をご存知なら、第7次イゼルローン攻防戦を思い出す方もいらっしゃるだろう。
鎌倉幕府が甚大な損害を出しながら攻略した赤坂城を、1人も死なせることなく、楠木正成は奪還したのだ。
稲葉山城を一日で乗っ取った戦国時代の天才軍師、竹中重治と並ぶほどの知略と言えよう。もしかしたら、半兵衛も楠木正成の軍略を学んでいたのかもしれない。
渡辺橋の戦い
和泉と河内を制圧し、一大勢力となった楠木正成は、摂津へと侵攻し、1332年5月17日、渡辺橋の南側に布陣した。
鎌倉幕府の六波羅探題は、5,000人の軍勢を派遣し渡部橋まで進んだが、橋の南側には楠木の軍勢は300騎しかいなかった。
兵の少なさを見た六波羅軍は、渡部橋を渡って少数の楠木軍を追いかけたのだが、住吉と天王寺付近に主力を忍ばせていた2,000騎の楠木正成軍が、陣形がバラけた六波羅軍を三方から奇襲した。
六波羅軍は、軍を立て直すため、渡辺橋へ戻ろうとしたが、大勢で川や橋を渡ろうとしたため、川に流される者や橋から落ちた者など、軍勢は大混乱となり、大勢が討ち取られることとなった。
この戦いは、戦国時代の薩摩大名、島津義久が考案した『釣り野伏せ』と非常に似ている。
全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせておき、機を見て、敵を三方から囲み包囲殲滅する戦法だ。
一見かんたんな理屈に見えるが、これを実戦でとなるとなかなか難しい。
成功させるためには、高い練度と高い士気を持つ兵士、そして戦術能力に優れ冷静に状況分析ができ、兵との信頼関係が高い指揮官が不可欠となる。
楠木正成の機略と、高い士気と練度を持つ楠木軍の兵たち、そして橋という地理的状況、3つがうまく噛み合ったことで、寡兵ながら六波羅探題の大軍を蹴散らせることに成功したのだった。
「坂東一の弓取り」宇都宮公綱との対峙
六波羅探題は、坂東一の弓取り、宇都宮高綱に楠木正成討伐を命じた。高綱は600~700騎ほどの軍勢を天王寺に布陣させた。
弓取りとは、弓矢で戦う者「武士」を指す。つまり、「坂東一の弓取り」とは、東国で一番強い武士であることを示す。
楠木正成は、武勇に長けた宇都宮軍との正面衝突を避けようと、三日三晩、あちこちの山で松明を燃やした。
毎晩、奇襲を警戒した宇都宮軍は疲弊し、両軍激突することなく、宇都宮高綱は京へ撤退することとなった。
大きな損害を被ると判断して、正面衝突を避けた楠木正成の判断は正しい。
平凡な武将相手だと損害を少なくすることができるが、東国で一番強い武将相手だとそうはいかない。
がむしゃらに戦うことはせず、状況に応じて戦いを避ける機転の良さも、楠木正成の凄さの一つと言えるだろう。
『千早城の戦い』
鎌倉幕府の北条高時は、東国から追討軍を派遣した。これに対し、楠木正成は、金剛山一帯に要塞を築き、総指揮所の千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城で幕府に立ち向かうこととなった。
幕府は2月2日から13日まで赤坂城に攻撃を仕掛けたが、戦いのたびに幕府軍の死傷者が500~600人出るほど、城を守る平野将監は善戦した。
そこで、幕府軍は、城への水の供給を切る作戦へと変更する。城兵らは渇きに苦しみ、2月27日、平野将監以下将兵282人は降伏した。
赤坂城陥落後、包囲していた幕府軍は千早城へと出軍した。勝利した勢いで一気に攻略しようと、鎌倉幕府軍はろくに陣も構えず、我先にと城へ攻め入った。
しかし、櫓から大石が投げ落とされ、逃げ惑う兵には矢を降りそそぎ、幕府軍兵士の死体の山が、谷底でうず高く重なるだけだった。
あまりに攻城での損害が大きかったため、幕府軍は一旦攻撃することをやめた。戦いはしばらく膠着状態となった。
しばらくして幕府軍は、赤坂城の例にならい、3,000人の兵で水辺に陣を構え、城から降りてくる兵を討つ水源を断つ持久戦に切り替えた。
幕府軍は緊張の中、毎夜を過ごしていたのだが、だんだんと気が緩みはじめた。楠木正成はこの機を逃さなかった。
300人を闇に紛れて城から下ろし、夜の明けきらないうちに襲わせた。楠木軍は休む間もなく斬りかかり、水辺に陣を構えていた幕府軍は、元の陣まで退却することとなった。
長引く籠城戦で、さすがの楠木軍の兵たちも士気が下がり始めてきた。
兵の士気を上げようと、楠木正成は、兵らにわら人形を20~30体作らせ、甲冑を着せ弓や槍を持たせた。
その人形を夜のうちに城外の麓に並べ、後ろに兵500人を潜ませた。夜明けとともに朝霞の中から鬨の声をあげさせた。幕府軍は楠木軍の攻撃を決死の攻撃と思いこんでしまった。
一方、楠木軍の兵500人は矢を放ちながら徐々に城内へと戻っていった。
矢を振り払いながら進軍していた鎌倉幕府軍だったが、わら人形だと気づいた時には、時既に遅し。楠木軍は大量の大石を幕府軍に向けて投げ落とした。幕府軍の300名が即死し、500名が負傷した。
埒が明かないと、千早城包囲軍の諸将たちは、近くの山から城壁ヘ橋を掛けて一気に攻め上る作戦を新たに立てた。
幕府軍はさっそく広さ約4.8m、長さ66m以上の橋を造り、千早城の崖に橋を倒した。そして作戦通り、兵5,000~6,000人が橋を伝って城内へ殺到していった。
その様子を見ていた楠木正成は、かねてより用意していた松明に火をつけて、薪を積み上げるように投げ、 水鉄砲の中に油を入れて橋に注いだ。
城内にたどり着こうとしていた兵は、火を見て慌てふためき、後ろに下がろうとしたが、後陣が続いており、飛び降りようにも谷が深く、谷風に煽られた火は猛火となり、橋は完全に折れてしまった。燃え上がる橋とともに、数千人の兵が焼死した。
こうして幕府軍が千早城に釘付けになっている間、楠木正成の活躍に触発され、反幕勢力が次々と挙兵するに至った。5月7日、足利尊氏が六波羅を攻め落とし、京から幕府勢力は掃滅された。
5月10日、六波羅陥落の報が千早城を包囲していた幕府軍にも伝わり、包囲軍は撤退し、千早城の戦いは楠木軍の勝利に終わった。
そして、5月22日、新田義貞により鎌倉幕府は滅亡した。千早城の戦いが終わった12日後のことであった。
幕府軍の様々な攻城作戦に対し、大石を投げ落とし、夜襲を仕掛け、火と油で橋を壊し、見事城を守りきった楠木正成。
築城、籠城技術を発展させ、軽歩兵、ゲリラ戦、情報戦、心理戦を戦に導入した革新的な戦い方は、のちの世に大きな影響を与えることとなった。千早城の戦いは、その代表例と言えるだろう。
数多くの幕府軍を赤坂城と千早城に引きつけ、倒幕のキッカケを作った楠木正成は、足利尊氏、新田義貞と並ぶ殊勲を挙げた武将だったのだ。
前編はここまで。後編は、楠木正成最期の戦いとなった「湊川の戦い」を考察していく。
楠木正成の主な戦績【元弘の乱】
元弘の乱
『赤坂城の戦い』
1331年10月13日~11月21日(元弘元年)
後醍醐天皇勢力:戦略的勝利
戦力:不明(推定400~500人)
損害:不明
鎌倉幕府:局地的勝利
戦力:正規軍全4軍、推定10,000人
損害:死傷者1,000人以上
元弘の乱
『千早城の戦い』
1333年2月27日~5月9日(元弘3年/正慶2年)
楠木正成軍:勝利○
戦力:推定1,000人
損害:不明
鎌倉幕府:敗北●
戦力:推定25,000人前後
損害:甚大
※参考文献:太平記、Wikipedia
後編へ続く......
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