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【歴史】もっと評価されるべき隠れた知将、楠木正成【後編】

『建武の新政』以後、足利尊氏が反乱を起こした「建武の乱」における楠木正成の戦いを紹介するとともに、考察していく。


豊島河原合戦

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この戦いについて特に語るものはないが、この合戦に至るまでの経緯はなかなか面白い。

詳しいことは、足利尊氏を語る時にしたいが、東海道から押し寄せてくる新田義貞軍に対し、敗戦一方だった足利軍が、箱根・竹ノ下の戦いで勝利を収める。戦国時代とは異なり、京への進軍は、この時代とても素早い。足利尊氏は、新田義貞を追って入京を果たす。後醍醐天皇は比叡山へと逃亡する。

天下取り目前の足利尊氏であったが、彼の前に立ちはだかった武将がいた。陸奥将軍府、北畠顕家である。奥州から駆けつけてきた北畠顕家は、新田義貞とともに京都へ侵攻。糺河原の合戦で、足利尊氏を丹波国へ追い払うことに成功する。

丹波国で戦力を整えた足利尊氏は、再び京都へ侵攻する。足利尊氏軍は摂津国猪名川付近へ到着した。これに対し、後醍醐天皇軍も摂津へと向かった。そして「豊島河原合戦」にて両軍が激突した。

合戦の結果、新田義貞、北畠顕家、楠木正成側の後醍醐軍が勝利となり、足利尊氏は、九州へ敗走することとなった。命運が尽きたかに思われた足利尊氏であったが、九州を足がかりにして、彼の大逆襲劇が始まる。



湊川の戦い

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1336年7月4日、摂津国湊川で、九州から東上して来た足利尊氏、足利直義兄弟の軍と、後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。

海から足利尊氏の率いる軍が湊川に到達し、新田・楠木連合軍と対峙した。陸からも足利直義を司令官とする陸上軍主力の大軍が西国街道を進行し、接近しつつあった。水軍を用意できなかった新田軍は、総勢5,000騎を経島に、総勢3,000騎を灯炉堂の南の浜にそれぞれ布陣させ、陸地からの敵に備えた。新田義貞は、総大将として諸将への軍令を出すため、和田岬に25,000人の兵で布陣した。楠木正成軍は、700騎で湊川の西側に布陣し、陸地から攻めてくる敵に備えた。

鋭い方はもうお気づきだろう。上記の陣形図をご覧の通り、この時点ですでに勝敗は決していた。新田、楠木軍の陣立てがあまりに不思議すぎるのだ。背水の陣で兵の士気を高めるため、と言われているが、足利軍は、陸と海で新田、楠木軍を囲んでいる。水軍を持たない新田軍は、足利軍の上陸を防ぐ手立てを持っていない。東へ移動する足利水軍の陽動に見事に引っかかってしまった新田軍。足利尊氏の和田岬上陸をやすやすと見逃してしまう。

こうして、楠木正成軍と新田義貞軍は分断し、楠木正成は孤立することとなってしまった。

籠城し、地の利を得ることで、今まで巨大な敵に打ち勝ってきた楠木正成だったが、たった700騎の手勢で、前後多数の敵と戦うのはどうしようもない。多勢に無勢、まさに万策尽きた状態であった。正面にいる大軍に突撃を敢行し、足利直義率いる軍勢を蹴散らし、須磨、上野まで退却させたものの、新手の6,000騎が楠木正成軍の後方、湊川の東側に駆けつけ、16度の突撃を行い、6時間の合戦の末、楠木軍はついに73騎となってしまった。疲弊した彼らは民家に駆け込み、楠木正成と弟の正季は自害。生涯を終えることとなった。

湊川合戦における楠木正成、新田義貞軍敗因の一つに「兵の多寡」が挙げられている。九州へ一旦敗走したものの、多々良浜の戦いで勝利を収め、九州と四国の諸豪族を味方につけ、勢いに乗る足利尊氏軍に対し、播磨国白旗城に篭城する足利尊氏方の赤松則村を攻めきれず、満身創痍だった新田義貞軍。

「敵は勢いに乗り大軍を率いているが、一方我々の軍勢は疲弊して人数も少なくなっている。」 太平記より

戦いにおいて、もちろん兵の疲労度も重要な要素だ。九州から京都へ向けて兵を集め、水軍もしっかり用意してきた準備万端の足利尊氏軍が有利なのは当然のことだろう。

湊川の戦いで、勝敗を分けた3つの要因を挙げる。

・生田川へ行くと見せかけた足利水軍の陽動作戦
・連戦で水軍を用意できなかった新田義貞軍の準備不足
・新田、楠木軍の分断に成功した足利尊氏の見事な戦略


まとめ

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やはり新田義貞についたことが、楠木正成の運の尽きだったように思う。新田義貞は、たびたび連携ミスを犯している。のちの戦いでも、北畠顕家とうまく連携を取ることができなかった。鎌倉幕府を倒し、合戦で何度も足利軍に勝利した名将ではあるが、今の言葉でいう、コミュニケーション能力がかなり欠けてた人物だったように感じる。

『梅松論』で、楠木正成が新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと、天皇に奏上したという話がある。結果論で岡目八目ではあるが、楠木正成は、新田義貞ではなく、足利尊氏につくべきだったと私も思う。この時代も、裏切りはもちろん日常茶飯事で行なわれていた。足利尊氏の味方にはなれない、なにかしらの理由が楠木正成にあったのかもしれない。天下目前の足利尊氏にとって、とても有能な楠木正成はジャマな存在でしかなかったかもしれない。湊川の戦いの勝敗が逆転したとしても、最終的には将軍足利尊氏に粛清されていた気がする。

楠木正成は、軍事面だけでなく、商才や実務官僚としても優れていたらしい。戦場で戦って戦い抜いて、最期に自害したという点で、武人として最高の死に方ではあった。日本の歴史において、戦国時代が圧倒的人気ではあるが、戦国武将たちは、楠木正成の戦い方の多くを学んだと思われる。

圧倒的不利の籠城戦で数万の大軍相手に戦い抜いた楠木正成は、やはり日本史上最高の軍事家だと評価したい。



楠木正成の主な戦績【建武の乱】

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建武の乱
『豊島河原合戦』
1336年3月23日~24日(建武3年)

後醍醐天皇軍:勝利○
戦力:不明
損害:不明

足利尊氏軍:敗走●
戦力:不明
損害:不明
建武の乱
『湊川の戦い』
1336年7月4日(延元元年/建武3年)

後醍醐天皇軍:敗北●
戦力:推定17,500人
損害:不明、楠木正成軍壊滅

足利尊氏軍:勝利○
戦力:推定35,000人
損害:不明

※参考文献:Wikipedia、梅松論、太平記


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