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愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。Part.2

全く同じ状況は発生しないにせよ、過去の出来事を振り返る事は、いくらか参考になると考え、前回は、1928年~1970年を振り返ったわけだが、その続きで、1969年以降を振り返ろう。(過不足等、多少の不備は、あるかもしれませんが、ご勘弁を…)

Part.2:1969年~2001年

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1969年、ニクソン大統領が就任する。この大統領が色々と市場を混乱に陥れることになる。1971年08月15日、米国の金保有量が減り、ドルの金交換に応じられないことを理由として、ドルと金の交換を一時停止すると宣言。金1オンス=35ドルという固定されていた交換レートが、無効になり、1944年から続くブレトン・ウッズ体制(金本位制に基づくアメリカ合衆国ドルと連動した通貨の国際的な固定相場制)が終了した。

この時の株価の推移は興味深いので、拡大しておくと、下記のようになる。

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この兌換一時停止は諸外国にも事前に知らされておらず、突然の発表は、大きな驚きとともに、世界経済に大きな影響を与えた。

この決定は、大統領の独断での決断が許される専権事項であり、アメリカの議会にも事前説明も無かったようである。

しかし、ニクソン大統領の全くの独断だったかと言うと、「金交換停止と輸入課徴金」について、コナリー財務長官とボルカー主席財務次官(1979年FRB議長)が起草に携わっている。

アメリカとしては、ドル安へ誘導することで、競争力を高め、貿易赤字を解消し、失業率を下げる事のが目的だったようである。

株価の推移を見ると、この目論見は成功したように見える。しかし、1973年1月20日に、ニクソン大統領が2期目を迎えたところから株価の下落が始まる。

事件の発端は、大統領就任の前年、大統領戦のさなかの1972年6月17日に遡る。民主党の本部のあったウォーターゲート・ビルに、何者かが盗聴器を仕掛けようとして侵入し、警備員に発見され警察に逮捕された。

このウォーターゲート事件とニクソン大統領(共和党)の関係が疑われ、調査を行う上院ウォーターゲート特別委員会が1973年2月7日に設けられる。そして、全米が注目する中で1973年5月17日より公聴会の模様が、当時の全米の3大テレビネットワークで、コマーシャル抜きで放映されることになった。

そして、1974年8月8日夜、ホワイトハウスの大統領執務室から国民へのテレビ演説で、ニクソンは8月9日正午に辞任することを発表した。

ニクソン大統領が2期目を迎えてから辞任するまでの期間、株価は右肩下がりとなっている。

まぁ、政治スキャンダルは、株価の一面で、この期間の経済的な出来事としては、1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発し、10月16日に、OPEC加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が、原油価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げることを発表した。この第1次オイルショックにより、世界的にインフレが加速し、世界全体の景気が悪化していったようだ。

少し話がずれるが、ニクソンが辞任したのと同時期、ベトナム戦争の終結で業績が悪くなっていたロッキード社の航空機(軍用機)受注をめぐった世界的な(オランダ、イタリア、サウジアラビア等を含む)汚職事件、ロッキード事件で、1974年12月9日に田中角栄が内閣総辞職をしている。石油の利権を巡って、アメリカに嵌められたという見方もあるようだが、事実はよく分からない。ベトナム戦争やオイルショックなど世界情勢の影響を受けた事件だったという事は言えそうだ。

ブラックマンデーと呼ばれる1987年10月19日、株価が垂直に下落している。1987年10月14日に米国商務省が発表した予想外の高い貿易赤字が、金利を上昇させ、株価を下落させる一方で、米ドルの価値に悪影響を及ぼした。これが株価下落のトリガーになったのではないかと見られているようである。その後、株価も戻しているし、雇用も悪くない状態だったので、一時的な過剰反応だったように思われる。

1989~1991年は激動の時代だった。1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊。1990年8月2日、イラクがクウェートへ侵攻。1991年1月17日、第1次湾岸戦争が勃発。1991年12月25日、ソビエト連邦が解体。と、歴史的に重要な事件が起こっている。

資本主義と社会主義の対立構造が崩れ、新時代への予感を感じさせる出来事であった。

そして、ここから、ドットコムバブルに突入するので、この時の株価の推移を拡大しておこう。

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1994年10月13日にはNetscape Navigator(インターネットブラウザ)が無償提供され、1995年8月24日にはWindows95が販売された。この辺りから株価が急上昇を始めている。この過熱感に対して、1996年12月5日にはFRB議長のアランスパンが「根拠なき熱狂(irrational exuberance)」という言葉を残した。

しかし、この後、1997年7月2日にアジア通貨危機、1998年8月17日にロシア金融危機を受けて、1998年9月23日LTCMが経営危機に陥り、後始末にFRBが乗り出す事になり、結果的にドットコムバブルを加速させる事になる。

LTCMは、ノーベル経済学賞受賞者らを集め、高度な金融工学理論を駆使して、数年は驚異的な成績を記録した。しかし取引債券のわずかな金利差から収益を得るために巨大なレバレッジをかけていたため、アジア通貨危機で起きた市場の変動を吸収しきれず破綻した。この時、LTCMはロシア国債が債務不履行を起こす確率は100万年に3.4回(シックス・シグマ)だと計算しており、LTCMのポジションは、新興国に対する投資家の動揺が数時間から数日の内に収束し、いずれ新興国の債権・株式の買い戻しが起こることを前提としていたが、事態は逆に進展した。

FRB議長アラン・グリーンスパンは、LTCM破綻危機により拡大した金融不安の沈静化するため、短期金利のFFレートを1998年9月からの3ヶ月間で3回引き下げる迅速な対応を行った。

そして、結果的には、この金融緩和が、ドットコムバブルを加速させ、2000年3月10日に頂点を迎えるまで、ドットコムバブルの株価上昇に油を注いだようにも見える。

もう一点、2000年と言えば、Y2K問題が重要な要素である。コンピュータが下2桁で年号を処理していることにより、2000年を迎えると、様々なシステムが動かなくなるというY2K問題があり、2000年以前に、プログラムを修正したり、ハードを買い替えたりという特需が発生した。

この2000年問題への対応は、1,000億ドル(10兆円)とも1,500億ドル(15兆円)とも言われる特需を生み出した。

思わぬ金融緩和とY2K問題の特需に膨らんだドットコムバブルは、やがて2000年を迎えると、FRBの利上げと、特需の枯渇により、バブルが弾ける事となった。

ドットコムバブルを終えたところで、Part.2を終わりにしよう。

何かの参考になれば、幸いです。つづきは、のちほどに…。

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おまけ
課金してくれた方には、感謝を込めて、おまけ程度ですが、1969年~2001年のチャートに、米国債10年の金利,MonetaryBase,FFrate,CPI,新規失業保険申請件数、失業率を追加した図を付けておきます。

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