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曇りのち曇り


曇りの日と言うのは嫌なもんだ。雨はもっと嫌だが。


 曇り空が続くと気分が冴えない。どころか憂鬱になる。
雨はもっと嫌だが、諦めがつく理由になるからそれほどでもない。しかし曇りと言うのは、いつか晴れ間が見えるのてはないかと少し期待してしまう。それが夜になるまで曇り空だと溜息が出てしまう。
 明日は晴れるのかとスマホの天気予報を見ると、やはり曇りのまま。明日も晴れないのかと深く溜息が出てしまう。
 

 晴れの無い星。
 たぶん私はそこに住んているのだ。

 それは極端か?
いや、極端なんかではない。私は産まれてからずっと晴れ間を見たことが無い。
 たぶん私は、晴れ間の無いそんな星に住んているのだろう。

 しかし、何故か晴れの日を知っている。
それは何処かで見たのか、いやそれとも空想なのか。または映画やドラマで見て知っているのか、それも分からぬ。

 私の精神は、半永久的に晴れ間を知らずに生きるつもりらしい。
 これは哀しむべき事だと思う。
そんな酷い事を罪もない私によくも下したものだ。

 憐れむべき人間は、此処にいる。私という人間だ。
 両親に望まれ産まれた私は、暫くの間喋らなかったらしい。
 自閉症を心配した親は、私を児童相談所に連れて行った。
研究員が砂場のある広い部屋で私と砂遊びをしたり、積木をしたり、クレヨンで絵を描いたりした。

 自閉症では無いが、この子の心は閉ざしていると言ったそうだ。
 私は、何者なのかをいつも考えていたように思う。目に映るもの、人、楽しく歓喜の声を出して遊ぶ子供たち。
 いつも遠くから、いや正確に言うと、脳の奥の方にある小さな部屋の中から窓を通して見ていたのだと思う。
 親は私を楽しませようと遊園地やショッピングに連れて行った。羽田空港にも飛行機を見に連れて行かれた。
 お子様ランチ、クリームソーダなどなど、両親は閉ざした私の心を解放しようと必死だった。その頃には少しだけ喋るようになっていたが必要性を感じていなかった。
 必要に迫られた時だけ話したそうだ。間違った曖昧な言葉は話さなかったらしく、よく大人の適当な相槌にダメ出しをしたそうだ。
 笑うことは殆ど無かった。
だから何処へ行っても忌み嫌われ虐めにも多く遭った。
 虐めに関しての私の経験はとても公表できるレベルではなく、この歳になっても話す必要性を感じない。

 こんな調子であるから、私は特殊学級に入れるかを検討された。しかし両親が反対し普通学級で過ごすことになったのだ。

 私の時代は、今では差別用語とやらに入る言葉が世に蔓延していた。
 私は知恵遅れだと言われた事もあった。
 集団に馴染めず、それどころか人にも馴染めず、笑わず返事もせず、ただ椅子に座っているたけの児童だったのだ。

 知恵遅れ。酷い言葉だと思う。しかしたぶん私は学習障害はあったと思う。これは学校と言う集団に全く馴染めない事から授業などに意欲が湧かず、それにいつも日常的に先生に叱られている事から緊張しっぱなしな状態たったため、勉強などあり得なかった。
 
 学校と言うものが、拷問場所だと心底思っていたのだと思われるのだ。


 その地域で幼少期を過ごし、両親がある教育者から転校を勧められた。父親の仕事も東京市部よりは23区の下町の方が都合が良かった事もあり、東京西部から東部へと引越したのだった。小学5年の頃である。
 小学5年6年と下町で過ごす内に、少しずつ閉ざされていた私の脳が働き始めた。下町の小学校の生徒達は、嫌味を知らない。虐めがあると正義の味方が登場しやっつけてくれた。嘘も無く本音だけのコミュニケーションで、たぶんその事に私は少しずつ安全さを得ていったのかも知れない。
 脳の成長とは、絶対安全で絶対安心な環境てないと進まないのだとつくづく思う。

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