溺愛

 祖父母は昭和一桁の生まれで、祖母が一つ年上だ。二人は祖父の一目惚れから始まった恋愛結婚である。当時それがどれほどの意味を持ったかは分からないが、家の格式としては祖母のほうが由緒確かな武家の流れだったらしい。未だに男尊女卑など揶揄されることがあるような、体面を重んじる田舎の話である。どうやら比較的裕福で当時の女子ではそこそこの教育を受けた祖母と、半農半漁の家に生まれ上がすべて戦死したがために繰り上げ長男になったような祖父とでは、もしかすると壁があったかもしれない。
 二人とも九十を過ぎるまでたいそう元気だった。祖母は時折入院したが、ほとんど脚に関係したことだった。入院のたび、祖父はいつも毎日見舞いに通い、早く祖母を家に連れて帰りたがった。入院生活はどうしても刺激が少なくなるので、認知症を避けるためというのが祖父の言い分だった。実際祖父は早々に祖母を退院させ、毎日リハビリの送迎をし、祖母の介助も家事全般も一手に引き受けた。私が最後に会ったとき祖母は家の中をゆっくりだが自力で歩いていた。「おじいちゃんが大変だったよ、毎日お見舞い来て、退院したら送り迎えして」と祖母が言うと、祖父は照れ隠しのようにえへへと笑っていた。
 だからそんな日が来るとは想像しがたくて、祖母が寝たきりになっているといきなり聞かされたとき私は大いに混乱した。病院でできることはもうなく、後は在宅で、利用できる訪問医療をつぎ込んで、最期は家で看取ろうという話だった。

 一度家族そろってビデオ通話をすると、祖母ははっきりした声で「ありがとう」と二回繰り返した。そのあとは最初ほど明瞭ではなかったが、何度か笑い、うんうん、と相槌も打っていた。父と祖父が横で機材のことをやり取りしているのを見て(本当にこの人たちは仕方ないねえ)というような表情でこちらの画面を見ていた。そして何度も手を振ってきた。後から聞くに、画面に映った私たち一人一人の顔に触れていたのだという。目がはっきり見えている証拠だし、それぞれを認識できている。祖母の頭はやはりまだよく働いていた。ただ日に日に眠っている時間が増えているという話だった。
 画面越しの祖母はすっかりおばあちゃんらしくなっていたが、肌はきれいだったし、口元には微笑みがあり、黒目は変わらずつぶらでキラキラしていた。元気なころから心配していた髪の毛も、真っ白になったものの薄毛にはなっていなかった。髪質が祖母に似ているわたしは少なからず安堵した。そしてただ何となく、もう少し祖母の命は永らえるのではないかと思った。祖母からは生の気配がした。
 そんなことを感じながら画面を見ていると、不意に祖父が手を伸ばし、祖母の髪を撫でてやっているのだ。これは胸きゅんだ!と思ったし、何公然とイチャコラしてるの!?とも思った。孫の心境は複雑である。

 祖父母の関係は孫からは見えにくかった。それぞれ自分の部屋を持って、お互いが自由に過ごしていた。祖父も自分で家事全般ができる人だし、祖母は何をするにも祖父に遠慮した様子は見せなかった。生活リズムはずれているようでなぜか噛み合っていた。男尊女卑なはずの時代と地域で生きてきたわりには先進的な夫婦だったと思う。
 確かに恋愛をして結ばれて七十年近く連れ添った二人に波はあったかもしれない。それでも年を重ねたのちに、祖父の祖母への溺愛っぷりがまた盛り上がっていたのである。最期が見えて、という表現はあまり使いたくないが、そのときを迎えてより一層盛り上がりを見せていたのかもしれない。
 その溺愛が少しでも長く注がれれば、と思っていた。けれど思っていたよりも早くその日はやって来て、祖母は眠るように旅立った。祖父は恐らく望み通り、その最期に寄り添って見届けた。知らせを聞いたとき、ひどくほっとした気持ちになった。生きて会える期限も予測できない状態を抜けて、いつか行けたら、という切り替えが起き、猶予が与えられたからかもしれない。会いに行くならどういう段取りをしようか考えているうちに逝ってしまったことに、不思議と後悔はなかった。後からなぜかやたらと泣けてきたけれど。
 祖母は幸せだったのだろうか。あんたはひとりやから守ってくれる人がおったほうがええ。そう言っては私が実家を出て一人暮らしをしながら、独身のままであることを心配していた。祖母は守ってくれる人がいたからそう言えたのだろうか。あれは祖母が溺愛されたからこその言葉だったのだろうか。言われた当時の私には、守ってくれる人などいなくても自分ひとりでやっていけるという気持ちがあった。今は少し気持ちに変化が起きている。

 知らせを受けた翌日、花屋を覗いた。参列等一切不要となると、心中で追悼するしかなく、こういうときに花を供える気持ちが初めて分かったような気がした。入ってみると、供花用にプリザーブドフラワーが多く用意されている店だった。祖母は何色が好きだったろうか。いくら考えても、帰省はいつも夏だったから、緑と白の横縞のサマーニットを着た姿ばかりが思い出された。そういえばベージュの口紅をしていたかもしれない、寒色より暖色を好んでいた気もする。色とりどりの花を前にして、私は自分がいかに祖母のことを分かっていなかったかを思い知る。
 いつか、いつも祖母が心配していた私の独身問題にカタがついて、祖母ほどの溺愛を受けないにしても、一緒に遺影に語りかけてくれる人が出来たらそのときは、こういうプリザーブドフラワーの供花を買って行くのもいいなと思った。手入れしなくてよいなら祖父にとっても楽だろう。隣にいる人の顔はさっぱり見えてこなかったけれど、祖父にプリザーブドフラワーの説明をし、自分が選んだ花に蓮のうてなが入ってるんよ、と言う自分の姿が容易に想像できた。そしておそらく祖父が用意するであろう祖母の位牌のまわりがいつでも片付いていて、祖父の溺愛がさりげなくしかし変わらずしっかりと注がれているのを見て、まだイチャコラしてる!と思うのだろう。