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アフターコロナと『天気の子』

2019年7月某日。学校終わりにそのまま映画館に向かった。目的は、そう。あの『君の名は。』の新海誠監督の最新作『天気の子』を見るため。

高校2年生の秋に映画『君の名は。』に出会い、生まれて初めて「同じ作品を映画館で何度も観る」ほど好きになるという経験をした。その、『君の名は。』の新海監督の最新作だ。

私は心を弾ませながらスクリーンから一番遠い、最後列の端の席に着いた。


(ここからはネタバレなども含むのでネタバレなどが嫌いな方は読まないほうが良いと思われます。)

見終えてすぐに思ったこと

「えーーーーーー・・・おおう。え?・・・うん。」

(困惑→一度納得?→でも、疑問。→とりあえず、、、うん。)

『君の名は。』は劇中で何度号泣したかわからないくらい涙があふれていたが、『天気の子』を始めてみた時、一度も涙が出なかった。

いや、少年。拳銃撃ったら犯罪やで。銃刀法違反。待て待て、帆高。いくら大切なものを取り戻すためとはいえ、警察から逃げたらアカンやろ。しかもその足で線路侵入。いやいや。

(多分ここ、少年が何も罪を犯してなければそのひたむきさに感動して涙が出るんだろうけど・・・)と困惑しながら鑑賞していた。

『あの日、降り出した雨は、それから一日も止むことなく、東京の街をゆっくりと水に沈めて壱岐、2年半が経った今でも、降り続けている。』

待って。東京沈んだの!?完璧なハッピーエンドじゃないんだね!?

そしてエンドロール。

明るくなった劇場でふと、思い出した。

「この作品は賛否両論あると思います。」

このようなことをどこかの記事で新海誠監督が仰っていた。

確かに。私は、『君の名は。』は好きだけれど『天気の子』は好きじゃない。そう思いながら劇場を後にした。

『天気の子』のレンタルが始まった。

2020年5月。『天気の子』のBlu-ray&DVDの販売、レンタルが開始した。

(もう一度、見てみようかな。)

講義がすべてオンラインで、誰にも会わず、家にいるしかない状況だった私は『天気の子』をレンタルした。

RADWIMPSの『愛にできることはまだあるかい』とともに流れるエンドロール。

気が付けば涙がこぼれていた。そして胸にはじわりと重い感動が湧いていた。

どうして。好きじゃなかったのに。感情移入するキャラクターはいなかったはずなのに。

しかし、初見の時とは明らかに変わったのだ。

私が。私の置かれている状況が。この世界が。『君の名は。』の世界のように変わってしまったのだ。

新型コロナウイルスによって。

アフターコロナの『天気の子』

初見の時、私はきっとこう思いながら映画を見ていたのだろう。

「世界が変わるなんて、起こるはずがないじゃないか。」「この物語はファンタジーで、世界が一瞬にして変わるはずがない。」「ファンタジーなのに『みんな』が幸せになって迎えるエンディングではないのはどうなのだろう」と。

しかし、見る側の私の置かれているこの世界も帆高や陽菜の世界のように一瞬にして変わったのだ。

今まで当たり前のように出席していた講義。当たり前のように会って一緒にお昼を食べていた友達。当たり前のように動いていた公共の交通機関。当たり前のように、いつでも帰れるはずだった実家。

当たり前の日常が一瞬にして変わった。

当たり前が当たり前ではなくなった世界。戻りたいと願っても戻れない世界。

その世界に生きて初めて、『天気の子』のキャラクターたちがいる世界を感じることができたのだ。

『人柱一人で狂った天気が元に戻るんなら、俺は歓迎だけどね。俺だけじゃない、本当はお前だってそうだろ?ていうか皆そうなんだよ。誰かが何かの犠牲になって、それで回っていくのが社会ってもんだ。』

劇中で主人公・帆高の上司(且つ命の恩人)須賀が放つ言葉。

このコロナウイルスの脅威にさらされて、気軽に友達とも会えない、どこにも行けない。そんな世界が誰か一人の犠牲で何もなかったかのように元に戻るなら。

自分がその「犠牲」を「犠牲」として決定してしまう立場に立ったとすれば―――

ためらってしまうだろうし、きっと「犠牲」を「犠牲」にしてしまう。そしてその後で何かと理由をつけて無理やりにでも自分を納得させようとするのだろう。

その「犠牲」に対する罪悪感と失った悲しみを抱えながら。

しかし、帆高は選んだ。『元の世界』ではなく『彼女』を。

世界の、おそらく大多数の願いよりも、『自分』の願いを。

彼は狂った世界の中で最後は『自分』を貫いたのだ。

そして私はこのコロナのはびこる世界になってやっと、彼の想いを、行動を理解することができたのだ。

『天気の子』が教えてくれたもの

それは『自分を貫いてもいいんだよ、自分の好きに生きていいんだよ』というメッセージだった。

大学に入っては見たものの、専門的な度合いが高くなるにつれて『本当に自分はこの学部にいていいのだろうか。』『自分が本当にしたいこととは何なのだろうか。』『何をして生きていけばいいのだろうか。』『こんなどこにも行けない、誰にも会えない世界で、何をすればいいのだろう』と迷っていた私に、まっすぐに響くメッセージだった。

もし自分が帆高だったら。周りの、その他大勢の「世界を元に戻してほしい」という願いの幻聴に惑わされて、最後に陽菜を選べただろうか。

でも、彼は陽菜を選んだ。その他大勢の願いよりも『自分』の願いを貫いた。

私は今まで「大学を出たら安定した仕事についてほしい」「きちんと就職をして安心させてほしい」「よい成績を残してほしい」ということを周りの大人に言われている気がしていた。(もちろん誰かに言われたわけではなく、自分が作り出した幻聴だ。)

「誰かのためになら頑張れる」と思い込んでいた。

「誰かのために」生きなければならないと、勝手に期待を背負い込んでいた。

そしてそれに応えることができなくなった自分を罪びとのように攻めていた。

しかし、コロナで変わってしまった世界。これまでの「当たり前」が「当たり前」ではなくなった世界。

そんな世界だからこそ、周りの誰かのために生きるのではなく「自分」のために、「自分」に忠実に生きていきたい。

『天気の子』は自分の中のその想いに気付かせてくれた。

私は、私のために生きていく。好きなことをして、生きていく。


おまけ

映画『天気の子』の中でこのセリフがあって鳥肌が立った。

不要不急の外出は避け、各地域の指示に従って―――(略)』

不要不急の外出。このワードを耳にするようになったのはコロナウイルスが世界中で流行し始めた後だ。

しかし『天気の子』はコロナウイルスの流行よりも前に製作された映画なのである。

冷静に考えると「劇中のあの状況ではこのワードが出てきてもおかしくないし調べればわかるだろう」となる。かもしれない。

しかし、あのタイミングでこのワードが使用されていたことにちょっとした不思議と恐ろしさを感じた。

まあ、日本の放送のガイドラインなんかにこのワードがもともと存在しただけなのだろうけれど。


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