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心が動く、とはどういうことか

人はなぜ、人と話をしたいと思うのか。

学校にいれば同級生に会えるのが当たり前だった学生時代、私は人と話すことについて深く考えたことがなかった。
社会に出て、毎日を孤独に過ごすようになってから、仲の良い友人がいるということ、そんな友人に、ごくたまにでも会えるということがいかに貴重なことか、身に沁みて実感するようになった。
話は、癒しなのだ。

数年に一度しか会えない人なら、会ったとき何を話したいのか、何日もかけて考えておく。
その貴重な数時間で、会話以外のことに時間を使おうなどとは、決して考えない。
会話以上に上質な時間の共有のしかたは、おそらく存在しない。

そんな癒しのひとときに、なにを、話すべきなのか。
話したいと思う内容とは、究極的には何であるのか。

そんな、人との会話の内容について、考えさせられる場面のひとつが、スピーチの経験だった。

青島には、「山口銀行杯」という、日本語スピーチコンテストがある。
青島にある大学のうち、日本語学科の設立されている十校の学生が、日本語でスピーチをする。
中国には、大連の「キャノン杯」、天津の「中日友好の声」など、有名な弁論大会がいくつかあるが、山口銀行杯もそのうちのひとつである。
山口県下関市は、青島市の姉妹都市だ。

青島に日本語教師として赴任してほどなく、このコンテストに出る学生を決めるための、学内予選があった。
私は2年生の会話授業を持っていたため、2年生のスピーチ指導も私が担当した。

2年生は、入学して「あいうえお」から勉強し始めて、まだ1年半くらいしか経っていない。
それでも話せる人は、相当会話ができた。
私は中学1年で「Hello, Mike」から英語を勉強して1年半経った中2のころ、英語でネイティブとペラペラ会話ができただろうか?
いやいや、とんでもない。いまだにろくに話せない。
たぶん、不真面目な学生だったせいだろう。
公教育にかけた税金を返してくれと言われそうだ。すみません、それは勘弁してください。
よくできる2年生は、優秀だな、と感心した。

そんな2年生の、学内予選用原稿をチェックしてあげたりして、予選当日は審査員席で点数をつけた。

Rは、3年生として、その学内予選に参加した学生だった。

Rのスピーチは、2年生とはレベルが違っていた。
発音の正確さ、スピード、そういう技術的な面も無視できないが、なにより感情がこもっていた。
予選のために、そのとき思いついた面白そうなテーマで書いているのではなく、本当に話したいことを訥々と話している、というのが伝わった。

心に響いた。

スピーチの内容は、Rのお祖母さんの話だった。
Rの祖母は、大変な苦労をして子供を育てた。
息子の一人、Rの叔父に当たる人は、飢え死にした。

おそらく、文化大革命の世代だろう。
日本人はあまり文革のことを知らない。文革で何があったのかは、『ワイルド・スワン』を読むと良い。
「人生で最も読む価値のあった本」として、よくランキング1位になっていた本だ。
中国語版は『鴻』という題名だが、中国では発禁処分のため読むことができない。

祖母は、必死に働いて、借金までし、残った息子に教育を受けさせた。
Rが生まれて、大学にまで行けたのは、ひとえに祖母のおかげである。

「水を飲むときには、井戸を掘った人の苦労を思え(吃水不忘挖井人)」という言葉がある。
小学校の国語の教科書に出てくる、毛沢東の逸話である。

Rは日本に留学に行きたい。でも家族は反対している。
中国では、子供が親元を離れて留学に行くことを、反対する親が多い。女の子の場合は、心配なのだ。
そして特に、日本に行くことを嫌がる親が多い。反日感情が残っている。
そんななか唯一、祖母だけは留学を支持してくれた。
井戸を掘ってくれた人、祖母への感謝を忘れてはならない。
祖母が経験したくてもできなかったことを、かわりに経験してあげたい。
そんな内容だった。

Rは、3年生の予選で優勝し、代表に選抜された。

スピーチコンテストは、1-2年生の部門と、3-4年生の部門との、2部構成になっている。
私は、2年生の代表の指導にあたった。
3年生は、別の日本人教師が担当することになった。

けれども、3年生の内容は、難しい。
本番当日、自分の発表の20分前にスピーチのテーマが教えられて、20分で内容を考え、即興で3-5分のスピーチをしなければならない。
母国語だって、難しい。
日本人が日本語でするとしても、突然伝えられたテーマで、20分後に3-5分のスピーチができる人が、どれだけいるだろう。
長すぎても、短すぎても、失格になる。
私は、できない、と思う。
やはり、専用の対策と準備が必要になる。
Rの担当者が、そこまで指導できるかどうか、心配だった。
なので、準備すべき内容を考えて、ある程度はRに伝えた。
Rも、私に担当してもらいたがった。
とはいえ、Rの担当教師を無視するわけにはいかなかった。ほとんど手助けはできなかった。

参考までにと、2年生に配布していた日本語の短い読み物をRに見せてあげた。
デール・カーネギーの『人を動かす』にある1つの逸話を、2年生向きにやさしい日本語で書き直したものだ。
「先生、これすごく面白いですね」とRがベタ褒めしてくれた。
「わたしも、こんな文章を読んで日本語を勉強したかったです」

面白い文章を読めば、興味が湧いて、勉強したくなる。そうかもしれない。
もっと、面白い文章を読ませたい、と思った。
カーネギーでなく、他人の言葉でなく、自分自身の言葉で、読みやすい文章を、いつか用意したい、と思った。
いま、こうして思い出を文章に残している、きっかけの一つは、このときのRの反応にある。

大学によっては、スピーチコンテストに力を入れていて、専門の先生を一ヶ月つけて特訓するところもあると聞く。
けれども、私のいた大学では、そんなことはなかった。
ただ、日本人教師が、ボランティアで空いた時間に何回か指導する程度だ。
入賞すれば、学生には賞金が出る。
また、指導担当として登録される中国人教師も、昇進に影響したりとメリットがあるらしい。
けれども、実際に指導にあたる日本人教師には、何も報酬はない。
だから、担当者が熱心でなくても、しかたないと理解している。

でもやはり、適切な指導があれば、スピーチは全然違うものになるのだ。

2年生の指導では、ずいぶん苦労した。
中国の学生たちは、模範的な作文を書くのに慣れている。

インターネットは便利です。生活を豊かにしてくれます。
でも、悪い面もあります。ゲーム中毒になる人もいるそうです。
だから、良い面と悪い面を認識して、インターネットを上手に使わなければなりません。

そんな内容だ。
長所と短所、そしてまとめ。きれいに整理されている。目次だって簡単につけられそうだ。
読みやすく、わかりやすい。論理的だ。
中国の教育の中で推奨される模範的な文章の形式に沿っている。

でも、ため息が出るほど、面白くない。

人の心を動かすスピーチをするには、まず自分の心が動かなくてはならない。
悔しかった。嬉しかった。驚いた。泣いた。笑った。
そんな強い情動を覚えた経験を思い出して、その体験を具体的に書くことで、共感できる、生き生きとした内容になる。

なにかを話す前に、なにを話すべきなのか、心から話したいと思うことが何なのか、深く自問すること。

話す機会が与えられる、その数分の間に、数十年生きて学んできた自分の人生を凝縮させること。

私は、人と話すときに、知的で、興味深い話を聞かせてあげたいと思ったことがあった。
しかし論理的な内容では、人の心が動くことはないと、後になって学んだ。
その論理がいかに面白く、知的な好奇心をくすぐるものであっても、決して人を感動させることはない。
なぜなら、感動や共感とは、論理ではなく、感情だからだ。
そして感情とは、体験から、記憶からしか、生まれないものだからだ。

自分が、人から聞きたいこととは、極言すれば「その人にとって、人生の最重要問題とは何であったのか」だ。
そしてそれが最重要問題になるに至った経緯。
その根本部分が理解できると、その人が得たいと努力してきたものを得られたときにどれほど嬉しかったのか、得られなかったときにどれほど辛かったのか、共感できるようになる。
人と、そんな話を共有できたら、どれだけ貴重な時間になることだろう。

「自分の考えていること」ではない。
「自分の考えていることの背景にある、そう考えるに至った個人的体験」こそが、人に共有すべき内容なのだ。

だからまずは、人に伝えたいような、感情を揺すぶられた経験を思い出すことが大事だ。

「そうですよね」と学生がいう。
「でも、そんな経験がありません。ずっと、勉強ばかりしてきました」

それも、真実かもしれない。

自分が学生のころを思い出してみた。
人に伝えたいような、感情を揺すぶられた経験... そんなのが、あったのだろうか。
もっと... 単調で、平凡に、この世の片隅でひっそりと生きていたのではなかったろうか。

でも...
同じように平凡な学生生活を送ってきたはずのRが準備した原稿は、どれも面白く、共感できた。
無駄がなく、本質をついた内容だった。
何が違うのか。

ここには、重要な何かが隠されている。

人は、経験を通して何かに気づき、考えるようになる。
それが普通の人の、物の考え方だ。

けれども、それを逆に見てみる。
どんな経験をしても、そこで気づくものがなく、考えることがなければ、学びのある「体験」をしたことにならない。ただ流れて、消えてしまうだけだ。
人は、考えることによって、過去の出来事にすぎない経験を、現在の自分の一部を形作る「体験」に昇華させることができる。

経験を通して気づき、考えるのではない。
考えることによって気づき、気づくことによって体験を得るのだ。

そして考えることによって、自分の経験のうち、重要だった核心部分がどこかが明確になる。
そのとき初めて、「無駄がなく、本質をついた内容」として、体験を語ることができるようになる。

豊かに生きる人とは、たまたま珍しい経験ができた運の良い人なのではない。
豊かに生きる人とは、深く考えることによって、自分の経験を深い体験に熟成させてきた人のことなのだ。

過去を思い出すことよりも、過去を深くみつめ直すことが、大事なのだろう。

スピーチコンテストの学生と、あきらめずに何度も話し合って、自分の経験を思い出し、考え直してもらった。
何度か書き直した結果、見違えるほど良い内容の原稿ができあがった。

青島のスピーチコンテストに参加する大学は十校あるが、そのうち上位の二校が圧倒的に強い。
その二校から出る学生は、交換留学の経験もあり、他のスピーチコンテストに出場した経験もありと、土台が全然違う。
有名校の矜持として、スピーチコンテストの指導にも力を入れている。
私の学校は、不利だった。

そんななか、私の担当した2年生は、スピーチコンテストで優勝した。
そして、日本への一週間の招待旅行を勝ち取った。

しかし、Rは当日、実力を発揮できなかった。
即興で内容を考える訓練が、まったくできていなかった。
あとでRの担当教師から、そもそも即興だということすら知らなかった、何の訓練もしていなかった、と聞いた。
Rは、しばらく泣いていた。

私は、担当教師に遠慮してRの指導をしなかったことを、後悔した。

何百人と集まる大ホールの舞台で、聴衆を前にマイクで演説する機会というのは、人生でそうそうあるものではない。
その晴れ舞台で、優勝するかどうかはともかく、自分なりに精一杯実力を発揮して、すがすがしい気持ちで拍手をあびる、という経験、一生の思い出になる経験を、Rにさせてあげたかった。

3年生の部が終わって、お昼休みに、4位に入賞した他校の学生と知り合う機会を得た。
話しかけたとき、「イケメンの先生がいるって、友達と噂してました」といって、喜んでいろいろ話してくれた。
イケメン。教科書に載ってない単語だ。
そんな言葉を知っていることからして、レベルが違う。
その子は、半年日本に交換留学していた経験があった。
さすがに、日本語が上手だった。
負けるのも、致しかたないな、と思った。
ちなみに、この子は、卒業後に国費留学で日本に行った。やはり優秀な学生だった。

とはいえ、入賞した学生たちも、優勝した学生でさえ、内容については心にじんと響くようなものではなかった。
もちろん即興ならしかたない。けれども、即興でない2年生たちも同じだった。
私も何十人とスピーチの指導をしたり、他校の学生のスピーチを聞いたりしたが、校内予選でのRのスピーチほどに感銘を受けるものはなかった。

次の学期になった。Rは4年生になった。

4年生の授業のなかで、古文の時間があった。
古文を教えられる日本語教師は、多くない。みんな、嫌がって逃げた。
なので、私が担当した。

中国の学年は、9月に始まる。
そして4年生は、12月に大学院入試がある。
大学院入試を受けない人でも、同時期に教員試験があったり、公務員試験があったり、あるいは就職活動をしたりと、忙しい。
この数ヶ月で、一生が変わる。
授業なんか聞いている場合ではない。
まして古文なんか、誰も興味がないことは明らかだった。

古文の第一回の授業が終わったあと、4年生の会話担当の同僚教師が
「先生、古文でどんな授業をしたんですか」
と聞いてきた。
「学生に聞いてみたら、すごく面白かったって、興奮してましたよ」
古文が面白いだなんて、まったく信じられない、といった表情だった。

古文の授業を面白くするのも、スピーチの内容を面白くするのと、根本的には変わらない。
聞く人の目線を想像して、興味を惹きそうな内容にフォーカスすること。
聞く人の目線がうまく想像できれば、半分成功したようなものだ。
実際にはうまく想像できないことも多い。
想像力と情報収集力の勝負だ。

第一回目の授業では、発音のことを話した。

韓国人が中国語を習うとき、1と2を間違えやすい。
韓国語の2(이)と、中国語の1(yi)は発音が同じだ。

中国人が日本語を習う時、9と10を間違えやすい。
中国語の9(jiu)と、日本語の10(じゅう)は発音が似ている。

それはなぜか。

中国語の発音は、実は古代と現代とで異なる。
このことを、中国人でも知らない人が多い。
日本人だって、「母」の発音が「papa」であったことを、どれだけの人が知っているだろうか。

大きく異なる点として、次の2点があげられる。

1つ目は、-p, -t, -k の消滅である。
たとえば、「1」というのは、現代中国では「yi」と発音する。
しかし、日本語では、「い」ではなく、「いち」である。
これは、日本語に入ってきた当時の「yit」という発音が、その後 -t が消滅することによって、「yi」になったことに由来する。

2つ目は、「ki」が「ji」になった変化である。
たとえば「北京」は、現代中国語では「beijing」と発音する。
しかしかつては、「beiking」であった。だから、「ペジン」でなく「ペキン」という。

そのことを知ると、9の謎が解ける。
いまの9の発音「jiu」は、かつては「kiu」だったのである。
だから日本語では、「じゅう」でなく「きゅう」なのだ。

発音の「発」というのもそうだ。
現代中国語では「fa」と発音する。
しかし、日本語では「は」でなく「はつ」だ。
だとすると、古代中国語の発音は、「fat」であったはずだ、と類推できる。

古い日本語を知ることは、古い中国語を知ることでもある。
よその国の自分と関係ない歴史なのではない。

そういうことを話したときに、Rがハッとしたように目を輝かせた。

聞く人の目線を想像する、というのは、そういうことだ。
同じ古文を勉強しても、日本人が勉強するときに面白いと思う部分と、中国人が勉強するときに面白いと思う部分は異なる。

それでは、聞く人が面白いと思う部分とは、何か。
それは、聞く人に関係のある部分だ。

そうはいっても、古文は難しいし、中国人学生と関係ない部分がほとんどだ。
2回目以降、興味を惹く授業ができたわけではない。
学生たちは、あまり授業を聞いていなかっただろうと思う。
学生たちが眠そうにあくびしていると、気持ちが凹んだ。
夜遅くまで入試の勉強をしているのだ。
授業すること自体が申し訳ない気がした。

でも、Rは、いつもまっすぐ黒板のほうを向いていてくれた。
Rがいるから、私も頑張れた。できる範囲で、面白い内容にしようと努力した。

上二段活用とかを勉強してもしかたないので、文学的な内容や、語源のことをよく話した。
その当時の授業で、語源について話した内容をまとめたものが、この文章である。

学期が終わるころ、R含め数人と、遊びに行った。
食事をごちそうしてくれた。
中国で初めて、チーズのたっぷり乗った美味しいピザを食べた。

また、次の学期になった。
赴任して1年がたち、再び山口銀行杯の時期になった。
私は今度は、2年生も3年生も両方担当した。

けれども特に、3年生の指導に時間を割いた。
あの難しい即興スピーチを、自分が指導できるのか。
やれるところまで、やってみよう、と思った。
過去のテーマや、別の大会でのテーマを分析し、テーマをカテゴリに分類して、カテゴリごとにどんな内容を話せばいいか、話し合って原稿準備を進めた。
去年の悔しさを晴らすつもりで頑張った。

結果、3年生の即興スピーチで、優勝した。

指導した学生が一位の表彰を受ける姿を見て、去年Rにこんな指導をしてあげたかったと、再び後悔の念が湧いた。

Rは卒業して、お祖母さんが経験したかったこと、海外留学を、実現した。
日本の神戸大学に行った。

私は大阪に行く用事があったときに、神戸に寄ってRに会った。

「先生の授業を聞けたのは、4年生の古文の授業だけです」とRが話してくれた。
「1-2年生の、時間がたくさんあるときに、先生の授業を受けられて、家で食事したりして思い出を作れていたら、どれほど良かったことか」

そして思い出に、神戸大学のマスコットキャラクター「うり坊(イノシシの赤ちゃん)」のぬいぐるみを、プレゼントしてくれた。
うり坊を見ると、Rのことを思い出す。

スピーチコンテストは、審査が公平になるように配慮がされている。
一位になる人は、やはり客観的に見て、総合的に良かった学生だった。
そこに、異論はない。

けれども、内容がよいかどうか、心に残るかどうか、何年経っても思い出すかどうか、というのは、総合点とは別の次元である。
上手なものが良いとは限らない。
「水を飲むときには、井戸を掘った人の苦労を思え」
とスピーチしたときのRの第一印象は、いまでも鮮やかに思い出せる。

私の心の中では、優勝したのはRだった。

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