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koto(言・事)とkata(形)

人間は、言葉を使わずに、ものを考えることができるのか?

ものを考えるには、頭で考える方法と、心で考える方法がある。
心で考えるときは、言葉は介さない。
ただじっと、関連することを思い浮かべる。すると、自分が何をすべきなのか、感情という形で答えが示される。

しかし、言葉を使わずに、考えたことを他者に伝えることはできない。
そして、頭の中にあることのほとんどは、自分で1から考え出したものではなく、言葉を通して学んできたものだ。
自分で考えるといっても、その基礎となる概念は、言葉の影響を深く受けている。

なにかある概念を指し示す、表現(シニフィアン)である「こと(言)」と、指し示された概念(シニフィエ)である「こと(事)」とは、表裏一体である。
質問に対して、「こと(言)」を返すことを「こた(答)える」という。

この「こと koto」の「o」を、「a」に変えると、「かた kata」になる。

概念である「こと(言)」や「こと(事)」というのは、人の頭の中にあるものだ。精神に属する。
それに対して、物質側である実際の物は、「かた(型)」や「かたち(形)」がある。
形があるものは、「かた(硬)い」。形ができることを、「かた(固)まる」という。
硬いものは、動くと「かたかた」「がたがた」と音がする。
固まることを、「かちかち」「がちがち」と表現する。
しっかり固めた良い状態なら「かっちり」しているというが、怒って固まるときは「かちん」と頭に来た、とかいう。
物の、ありのままの状態、素の状態の形を、「すがた(姿)」という。
複雑な出来事を、言葉を使って整理して形作ることを、「かた(語)る」という。

形あるものが、複数に分かれているとき、そのひとつひとつも「かた(片)」という。
片方を向くことを「かたむく(傾く)」という。
片方に寄ることを「かたよる(偏る)」という。
左右どちらか片方の腹のことを「かたはら(片腹)」という。転じて、片腹に接する横の部分を「かたわら(傍)」という。

人から提案された「こと」を、拒絶して破棄することを「ことわる(事割る・断る)」というが、「事を割る」というのは「複雑な物事を分解してわかりやすくする」という意味でも使うことがある。
そのようにして整理されて得られた真理を、「ことわり(理)」という。
「わ(割)る」というのは、「わ(分)ける」ことでもある。
「わ(分)ける」ことによって、理解できるようになる。それを「わ(分)かる」という。

人は、学習によって、物事が「わかる」ようになる。
学習とは、学び、習うことである。
新しいことは、他人がしていることを見て、「まね(真似)」して、「まな(学)ぶ」ことで知識として吸収される。「まなぶ」は古くは「まねぶ」といった。
真似して「ならう(倣う)」ことを繰り返して、「なれる(慣れる)」ことが、「ならう(習う)」ことである。習うことで、自分のものに「なる(成る)」。

何かがわかるようになると、「おもしろ(面白)い」。
目の前、「おもて(面・表)」に、知識の光が差して白く輝くイメージである。

光が差さなければ、「くら(暗)い」。暗いところは、「くろ(黒)い」色をしている。
光による劣化を防ぐために窓をつけない「くら(蔵)」は、暗かったことだろう。
光が届かず暗い「くらやみ(暗闇)」では、それ以上前に進むことができない。
行き止まりと同じようなもので、何もできないので、すべてのことが「や(止・已)む」場所だ。
病気で動けなくことは「や(病)む」という。心が「な(萎)え」て「や(病)む」ことを「なや(悩)む」という。
死後に行く闇を、「よみ(黄泉)」という。黄泉から帰ってくることを「よみがえ(蘇)る」という。

けれども光があれば、目の前が見える。
目の前というのは、顔、「おも(面)」の向く方である。
上の方は「かみて(上手)」、下の方は「しもて(下手)」、前の方は「おもて(面手・表)」である。
意識が、前にある表のほうを向くことを、「おも(思)う」という。

目の前、表にまっすぐ見えているもの、視野の中心にあるもの、それが「おも(主)」なものでもある。
物の中心部分は、重心部分でもあるから、「おも(重)い」。

逆に、中心部分でない、外側の部分は、「から(殻)」という。
殻しかなければ、中身は「から(空)」である。
中身が空なら、「かる(軽)い」。

「おもて(表)」の反対を、「うら(裏)」という。
表は、目の前に見えている世界、顔の前にある世界である。
「うら」は、目に見えない世界、顔の裏、頭の中にある世界、つまり心のことでもある。
心が悲しいことを「うら悲しい」という。
他人に嫌なことをされて心に残った状態を「うら(恨)む」という。
他人に良いことがあるのを素直に喜べず、辛く感じるとき、心が病むとき、「うらやむ(羨む)」という。
心が良い状態になれば「うれ(嬉)しい」。

光は、「ひ(日・火)」から出る。
「ひ」の現在の発音は「hi」だが、古い発音は「pi」だった。
だから今でも、光は「ぴかり」と光る。
日が出ているときを、「ひる(昼)」という。
日が昇る方向を、「ひがし(東)」という。東の元の言葉は、「ひむ(日向)かし」である。

文化圏によって違うが、日本では、太陽を絵に描くときは「あか(赤)」く描く。
日が昇ると、夜が「あ(明)ける」。日があたると、「あか(明)るい」。
朝焼けで空に赤い色がつきはじめた頃が「あかつき(暁)」、夜が明けてほのかに明るくなってきた頃が「あけぼの(曙)」である。
光が当たれば、物事はくっきりと明々白々に見え、「あき(明)らか」になる。

太陽が「あか(赤)」くて「あか(明)るい」のは、日本語だけではない。
韓国語でも、「빨갛다(赤い)」と「밝다(明るい)」は同一語源である。
他のアルタイ語でもそうかもしれない。

夜が完全に明けると、「あさ(朝)」になる。
朝とは、日が「あさ(浅)い」とき、1日のうちであまり時間が経っていないときをいう。
次の朝を「あした(朝・明日)」または「あす(明日)」という。さらに次は「あさって(明後日)」である。
「あした」とは、未来のなかでも時間が経っていないとき、つまり現在に近い直近の未来を指す。
もとは、「あさ(浅)い」とは、時間的に近いことを指した。
その後、距離的に近いという意味で、「深い」の反対を意味するようになった。
考えが浅い様子を、「あさ(浅)ましい」という。
考え浅く計画した考えは、「あさはか(浅計)」である。

「あさい asai」の「a」を「o」に変えると、「おそい osoi」になる。
「おそ(遅)い」とは、時間的に遠いことを指す。

「ひ(日・火)」は、古い日本語では神や王族を指してもいたのだろう。
日本の王の、他国と違う顕著な特徴は、祭祀の長であることだ。
王を「ひみこ(日御子・日巫女)」と呼んでいた、という本居宣長の説が正しいかはわからないが、古事記を読めば、男の神は「ひこ(日子・彦)」、女の神は「ひめ(日女・姫)」と呼ばれていたことがわかる。

「ひと(人)」というのも、元は王族を意味していたのかもしれない。まあ関係ないかもしれない。

大事な男の人、「おとひと(男人)」が「おっと(夫)」となった。
これは例外的にみえる。通常は、「〜ひと」は「〜うと」と音便化する。
大事な女の人は「いも」といったが、妻の意味から年下の女きょうだい、「いもうと(妹)」に変わった。
年下の男きょうだいは「おとうと(弟)」である。この「おと」は男でなく、年が「おと(劣・後)る」意味だと考えられている。
まだ何も知らず真っ白な状態の未経験者は、「しろうと(素人)」、その反対のベテランは、白の反対なので黒というのか、「くろうと(玄人)」という。
その他、「なこうど(仲人)」、「かりうど(狩人)」のように「〜うど」となることもある。旅人は、いまは「たびびと」としか読まないが、「たびうど」と読んでいたこともある。

夫の家族を示す接頭辞に「し」をつけるのは、韓国語と同じで興味深い。
漢字で「媤」と書くが、中国では使わない。
夫の父親は「しうと(舅)」、夫の母親は「しうと」の「め(女)」、「しうとめ(姑)」だ。

「おとこ(男)」とは、「おとな(大人)」の「こ(子)」のことだ。
現代語では、男に対応するのは「おみな(嫗・嬢)」の変化した「おんな(女)」という言葉だが、もとの「おとこ」に対応する言葉は「おとめ(乙女)」だった。「おとな(大人)」の「め(女)」のことだ。

「め」は女性を表す。
女の子が可愛いことを「めんこい」という表現も方言として残っている。

女性は、「め(愛)でる」対象である。
良いこと、慶事があると、め(愛)でたくなる。「おめでたい」ことである。そのとき「おめでとう」という。
め(愛)でたくなるような、女性や慶事は、そう多くない。「めづら(珍)しい」。

女性は、「いと(愛)しい」存在でもある。
「いとしい」というのは、強い感情を持つという意味だ。
現代語の「とても」という副詞は、古語では「いと」といった。
形容詞になると「甚だしい」という意味で「いた(甚)し」といった。
程度の大きな状態に「いた(至)る」ことでもある。

強い感情は、良い感情とは限らない。
怪我などの程度が大きければ「いた(痛)い」。
嫌なことは、「いと(厭)わしい」し、それを避けようと「いと(厭)う」。

しかし、痛みがあって苦しむ人がいれば、見ている方も心苦しいし、慰めたくなる。
「いたわ(労)しい」し、「いたわ(労)る」気持ちが起きる。

「いと(愛)おしい」は、もとは気の毒で心苦しいという意味であったが、いまは可愛い・愛らしいという意味でしか使わない。
愛する対象を見て、その人を得られない苦しさを表現するようになって、その人の愛らしさそのものを表すように変わったのかもしれない。
しかし、その人を得ようとすることなしに、無償の愛を注ぐこともある。それを「いつく(慈)しむ」という。
「いつく(慈)しむ」対象は、「うつく(愛・美)しい」ものとして目に映る。

「いと(愛)しい」人、親しい人を、「いとこ(愛子・従兄弟)」と呼ぶようになった、という説がある。
それが本当かどうかわからないが、昔は親族が集まって暮らしていたのは確かだ。

人が集まった場所を「むら(村)」という。
親しく交わることを「むつ(睦)ぶ」という。そのようにして仲良くなった状態を仲が「むつ(睦)まじい」という。
交わるとは、関係を「むす(結)ぶ」ことでもある。

動物などが集まっていれば、「む(群)れ」という。
小さな生き物が群れをなして生まれるとき、「むし(虫)」が湧いたという。
水分があって湿ったところがあると、虫が湧くこともあるし、苔が「む(生)す」こともある。
空気が湿って熱かったり、あるいは食べ物を水蒸気で湿らせたりすることを「む(蒸)す」という。

生まれるのは、虫だけではない。
男の子が生まれれば、「むすこ(息子)」、女の子が生まれれば「むすめ(娘)」という。

生まれた存在は、「い(生)きる」。
石は生きていないが、動物は生きている。心臓があって、血が脈打っている。「いのち(生の血・命)」がある。
生きているものは、空気を呼吸してもいる。その気を「いき(息)」という。
「いね(稲)」は、古代の日本人にとって生命線、命の根でもあった。

主食は米であったから、植物は生活の中心であったに違いない。

植物の真ん中にあるものは、「はな(花)」という。
人の顔の真ん中にあるものも、「はな(鼻)」である。

植物は、「め(芽)」を出すことから始まる。
人も、「め(目)」を開くことから始まる。

植物は、「は(葉)」で光合成して栄養を得る。
人も、「は(歯)」で食べ物を噛んで栄養を得る。
口をイーと開いた時に見える歯並びは、なるほど葉っぱに似ている。

他にも、突起物としての「み(実)」と「みみ(耳)」、膨らんだ部位としての「ほ(穂)」と「ほほ(頬)」、下に続く入口としての「くき(茎)」と「くち(口)」、といった関連がある。

このような相関は、韓国語にも見られる。「꽃(花)」と「코(鼻)」、「잎(葉)」と「입(口)」などである。
アルタイ語圏の特徴のひとつでもあるらしい。

私たちの目にする、実際の物は、「かた(形)」をもっている。
その形は、見ている私たちと関係なく存在している。従って、文化圏に依存しない。
けれども、それを見ている私たちが、それをどのような「こと(事)」として認識し、どのような「こと(言)」で表現するかは、文化圏に依存する。

しかし、日本語で認識し、表現しながらも、日本語にどのような特徴があるのかを、普段は意識することがない。
たまにはこうして、日常使っている言葉を見直してみるのも、「おもしろい」のではないだろうか。

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