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心の一部を置いていく


どこでも住めるとしたらどこに住みたいか?そう尋ねられても、具体的に答えられる人は少ないんじゃないかと思います。難しいよね。生活って生きることそのものだから。
そもそも自分は何が好きで、何が嫌で、どんな時に安らぎを感じるのか。そういうのが分かっていないと、理想の暮らしって決められないですよね。私も最近までは、ぼんやりしていました。

しかし、今の私なら事細かにこたえられます。
なぜなら“どこに住んでどう生活したいか?”は、最近の寝る前の妄想テーマだから。理想の場所と1日の過ごし方を考えていると、すーっと眠りにつけます。なんなら夢にも出てきてハッピーな睡眠をゲットできるのです◎
自分にぴったりのテーマじゃん!ってことで、書いてみようと思います。

どこでも住めるとしたら、
私が住みたいのは『トロンバス島』

どこやねんそれ?って思う方が多いと思います。はいごめんなさい。存在しない島です。
何言ってんだと思うかもしれませんが、もう少しお付き合いください。トロンバス島は、作家の恒川光太郎さんが執筆した小説『南の子供が夜いくところ』の舞台となる場所です。

からくも一家心中の運命から逃れた少年・タカシ。辿りついた南の島は、不思議で満ちあふれていた。野原で半分植物のような姿になってまどろみつづける元海賊。果実のような頭部を持つ人間が住む町。十字路にたつピンクの廟に祀られた魔神に、呪われた少年。魔法が当たり前に存在する土地でタカシが目にしたものは――。時間と空間を軽々と飛び越え、変幻自在の文体で語られる色鮮やかな悪夢の世界。

Google Books

調べたらちょうど10年前に出版されていました。
10年間、ずっと心に残っている本です。
美しい南の島のおおらかな空気に包まれた日常と、そこで暮らす人々の、自然や人の営みに対する諦観というかどうしようもなさが、絶妙なバランスと独特の世界観で書かれていて、ホラー小説の分類ですが、大人向けの童話として楽しめます。あんまり怖くないです。

そんなトロンバス島ですが、主人公の少年が連れて行かれる場所です。少年の両親は借金を苦に、一家心中しようとしていたところをある人に拾われ、一家は返済のためにそれぞれ別の島へ送られます。

なかなかヘビーな展開ですが、そんな暗い境遇が薄れるくらい、トロンバス島の描写が素晴らしくて、風通しが良い。日本とは違う大気の具合と、海や植物の色。ゆっくりと流れる時間。リゾート観光地として賑やかな街、普段何をしているか不明な暇そうな島の人たち。

小説だけどアートのような作品で、五感を刺激する表現が読者を物語に引き込みます。初めて読んだ時は夢中になって、いつかここに行きたい!と思って検索したら、愕然としました。
それもそのはず、物語はフィクションで、トロンバス島なんて場所はありません。
私の夢はインターネット上に存在しなかったことで、あっさりと敗れました。悲しい。

イメージしてる島
(高知県柏島の写真です)

それでも、ふと想像します。
もしあの島に住めたら。

朝起きたら、自然に生えてる野生のフルーツを収穫して、そのフルーツをジュースにして、ビーチ沿いの露店で観光客に売る。夕方になったら海で軽く泳いで、街に出て酒場でお酒を飲んで、眠る。
そんな素朴で単調な暮らしを夢みて眠りにつく夜は、ふわふわと、多幸感で満たされます。たとえ存在しなくても、憧れの場所はお守りなのかもしれない。

南の島への憧れを、夜な夜な潜在意識に刷りこんでいるせいで、旅行に行くときはつい南へ向かってしまいます。
海辺の街をぶらぶら歩いて、そこで暮らす人たちの生活を感じるのが、私にとっては旅行の醍醐味なのです。
旅行しているとき、ふと、トロンバス島を思い出すことがあります。(正確に言えば、私の頭の中でイメージしている憧れの島ですね)例えば海の色とか湿った風とか、カラフルなお土産屋さんを見て、「ああ、この風景はトロンバス島みたいだなあ」と。

小説の中で『まどろみのティユルさん』という話に、菩提樹の木が出てくるんですが、高知へ旅行に行った際、神社にとても大きな菩提樹があって「これだ!」と感動しました。(今までも見たことはあるはずだけど)菩提樹を菩提樹として認識したのは初めてのことでした。

帰りのバスが来るまで少し時間があったので、木の下に座って待ちました。この木、大きいというのは縦というより横に向かって伸びていて、手を伸ばせば届きそうな高さで、枝が屋根みたいに神社の敷地をおおっています。その日は枝の間から木漏れ日が差し、近くの海からは穏やかな風が吹いていて、木に守られているような、自分の体を充電してもらっているような、ゆるやかな気分になりました。ずっとここに居たい。

菩提樹
写真に収まらないくらいでかい

そういう時には、頭の中で、心の一部をこの場所に置いて行く、というイメージをします。旅行が終わって、自分の家に戻り、仕事や生活に追われてキリキリしてしまう時に、思い出せるように。目を閉じて、辛い日々から少しだけ逃げて、その場所にいた時間を思い出すと、落ち込んだ心がなぐさめられます。
遠くへ行こうと思えば、いつでも行けるのだと。
無理に遠くへ行こうとしなくても良いのだと。

そう考えることで、目の前にある大変をもうひと踏ん張りがんばれたり、がんばれなかったり。

「いつかこんな場所に住みたい」と思いながら、心の一部をそこに置いておく、その行為そのものが、祈りであり希望でもあるのです。

野生のハイビスカス
木漏れ日が白い壁に差してきれいだった
島猫と触れ合える生活にもあこがれます

ところで、「南の島にいるとアーティストは作品が作れなくなる」みたいな話を聞いたことがあります。
確かにリゾートって何もしないことが贅沢、みたいな空気がある。(そこが好き、何もしたくない)
ゆったりとした時間、ストレスのない生活は、人間から創造性を奪ってしまうのかもしれないですね。
あるいは創造自体がストレス解消のための行為で、ストレスがなければ必要なくなるのかもしれない。

どこで暮らしたいか?を突き詰めていったら、その背景にある、自分が本能的に求めている願望が見えてくるというか、心の底にあるぼんやりした気持ちを言語化できました。
それは自分を満たすための、(胡散臭い言い方をあえてすると、)ちゃんとしあわせを感じながら生きるためのヒントになるのでは、とも思います。忙しく生きている現代人の皆さん、自分が何が好きとか何が幸せとか、忘れちゃうことないですか…?

すぐに理想の場所で暮らしを始めるのは難しくても、noteを書いてみたら、そこに向かうために出来ることが見えてきました。
とりあえず、記事を書き終えたら、休憩してフルーツジュースでも買いにいこうかなと思っています。



最後まで読んでくれてありがとうございます。
散歩と博物館巡りの記録を書いています。

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