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糊するマガジン

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T君に

T君に

T君に「御報告がありまして…」と切り出されて、私は、身構えました。「来月で店を辞めるんです。年齢のことも考えて」。案の定、T君が打ち明けます。

馴染みの客とはいえても、T君に対する私は、他人行儀でした。幼い頃から体得した人間関係への防衛本能が邪魔をして、むしろぶっきら棒に接してきました。

「今まで丁寧な仕事をありがとう」「これからどうするの?」。いいたい言葉は何一つ継げず、ただ彼の言葉を受け止

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泥棒

泥棒

泥棒がある家に忍び込みました。けれど、番犬は、ほえません。「これまで何度もほえたけど、ご主人に褒められたことはない」と、犬は、ロバにいいました。

別の晚、また泥棒が現れました。真面目なロバは、犬の代わりに大声でいななき、泥棒を追っ払いました。けれど、その声に起こされた主人は、怒りました。

「なんで夜中に騒ぐんだ」とムチで打たれたロバに、犬は、いいました。「忠実に働いた君に、ご主人は、どんな褒美

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香典返しを固辞して

香典返しを固辞して

香典返しを固辞して帰宅したアパートの玄関で、私は、ふと我に返りました。「お清めの塩だけは、もらっておけばよかった」。一人暮らしのアパートです。

「キッチンへ取りに行くか」、「そもそも、ウチにはクレイジーソルトしか置いてない」。面倒臭くなって、そのまま部屋に上がり込みました。

「友達の通夜に行ったぐらいで、ケガれるわけないだろ」と自分に説教して。食欲がありません。それでも、死と生を隔てる行為とし

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終業後

終業後

終業後、電車に飛び乗ってメインイベントに何とか間に合いました。思いに任せない仕事が続いた日に、私は、ここで見知らぬ男同士の殴り合いを見詰めます。

赤コーナーか、青コーナー。そのどちらかの男を選び、全神経を集中させます。彼の目の、肩の、背中の、そしてココロの動きを凝視します。

私には到底持ち合わせない技量を備えた彼の肉体の中に、貧相な自分を重ね合わせてみます。

この試合が終われば、私もまた、元

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カナダ

カナダ

カナダ最大の仮想通貨交換所の経営者が急死しました。彼は、顧客の仮想通貨を個人のパソコンに保存し、パスワードは、誰にも知らされていませんでした。

結果として、顧客の仮想通貨は、彼の死と同時に仮想世界に永遠に閉じ込められてしまい、交換所の経営は、行き詰まりました。

私も、仮想空間上の私を守る鍵としていくつかのパスワードを持ちます。私の死後も、私の口座からは滞りなくAmazonプライムの料金が引き落

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星新一

星新一

星新一の「万能価値検査器」は、あらゆる物の価値を判定できる装置を手に入れた男の話。男は、それを使って商売で成功し、理想的な妻とも結婚できました。

でも、価値を判定していないモノが1つだけありました。それは、自分。恐る恐る、検査器を自分に押し当ててみた男は、「価値あり」の判定に大喜びします。

けれど、検査器を手にした妻が男を判定した結果は、その逆。つまりは、検査器を身に付けていない男には何の価値

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いつか

いつか

いつか、カイシャを辞める。酒の席とはいえ、唐突にわざわざそんな宣言をした理由が自分でもよく分からず、酔いが覚めた今朝、一人、首をひねっています。

理不尽な職場に対する警句か。「私には進むべき道がある」との根拠のないアピールか。それとも、「嘘も百回いえば真実になる」と自分を追い込む心理か。

どっちにしても、具体的なプランがなく、目標さえない「辞める」宣言は、何のプラスにもなりません。

これから

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他人を元気付ける

他人を元気付ける

他人を元気付ける。他人を勇気付ける。それって結構、難しい話だ、と、海を見下ろせる面会室で見舞客の話を聞きながら、Eさんは、思っています。

「大丈夫、Tだって、同じ病気を克服したんだから」。それはそうなのです。克服した人も、いました。でも、克服できなかった人だっていました。

「病は気からって、いうじゃないか」。それは、科学の話なのか、単なる精神論なのか。無論、そこにちっとも悪意は感じません。圧倒

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1,000記事目

1,000記事目

1,000記事目の節目に際して、999の記事を掘り返します。これまでみんなのフォトギャラリーから画像をお借りした皆様に、この場を借りてお礼申し上げます。

【執する記事】

【物する記事】

【興ずる記事】

【旅する記事】

【抄する記事】

【糊する記事】

【着する記事】

【1記事〜900記事】

やっかみ半分で

やっかみ半分で

やっかみ半分で「Sさんは、結婚とかしない人と思ってました」とイジる私に、50歳を過ぎての結婚を報告したSさんは、照れながらいいました。

「年を取るとさ、自分のためだけには頑張れなくなってくるものなのよ」。信号を待ちながら、Sさんのその言葉を思い出していました。

不意に背後で声がします。「おなかすいた?何か食べて帰る?」「そうだな、何か食べようか」。振り返れば、高齢の男女でした。買い物帰りのよう

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正月

正月

正月(食っちゃ寝生活)の疲れが溜まり、若く美しい店員のマッサージを受けています。三が日も働いていた、と聞いて、客である私は、恐縮してしまいます。

「この店舗は、お休みだったんですけど、隣県のショッピングセンターにある店舗に応援に行ってたんですよ」。丁寧に背をさすってくれながら笑います。

「癒してほしいのは、こっちの方ですよね」と、私は、同情してみせます。背をさすられながら、「紺屋の白袴」という

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電車(3)

電車(3)

電車の揺れに身を預けて釣り革をギシギシいわせながら、おちゃらけて話してはいても、茶髪クンの心中は、それほど穏やかでもなさそうです。

「前の課長は、無駄な資料は作らせなかったよな」と先輩クンが同情して見せます。「会議で行き詰まったときのための保険にしたいんだろうけど」と。

「でしょ。保険にするならマシだけど。「ふーん」で終わりですもん。だから、課長に作らされる資料のこと、俺の中では「ふーん資料」

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電車(2)

電車(2)

電車に乗り込んで、流れてゆく夕景を眺めていました。さっき、あの場ではうまく言葉にならなかった感情が、遠花火のように今になって心の中で弾けます。

「ふーん資料って、呼んでんですよ」と、その時、声が聞こえました。車内に目を移せば、3人連れの男たちが釣り革に半ば体を預けながら話していました。

「ふーん資料」の声の主は、一番若い茶髪クンでした。「課長って、心配性じゃないですか。だから会議の前には必ず、

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自分の敵は自分自身である

自分の敵は自分自身である

自分の敵は自分自身である、とは、随分と言い古された言葉ではあります。セネカがいい、ニーチェもいい、岡本太郎もいいました。

尾木ママによれば、ゆとり世代の若者は、そのイメージとは裏腹に「自分の敵は自分自身」と考える傾向がある、といいます。

他人との競争の結果としての相対評価ではなく、目標に対する到達度を重視する絶対評価の下で育った世代です。

競争には関心が薄い分、自分のパフォーマンスを重視しま

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