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城の崎に行く、ということ

山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、なんてことはない。本当になんてことはない、ただの旅行である。

蜂の死骸を見て自分の死を考える訳でもなければ、溺れる鼠に自分を重ねる訳でもない。まして石を投げてイモリを殺してしまうはずもない。

ただちょっと気ままな温泉旅行、それだけである。

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海鮮丼を食べる。宿に荷物を置き、浴衣に着替えて湯巡りをする。少し酒を飲みながら歩き、夕飯を済ませる。遊技場で射的をする。

志賀直哉のように数週間も滞在するわけではない。たかだか1泊2日の観光であるから、少々慌ただしい。しかし城崎温泉というのはよく出来た観光地で、半径数百メートル以内で全てが完結している。そんなに移動に苦労するわけでもなく、十分に楽しむことが出来た。

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2日目の午前中、城崎文芸館に訪れた。志賀直哉を初めとする文人達が、如何に城崎を愛していたかが伝わる良い展示であった。

「生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった」

志賀直哉「城の崎にて」の一文である。「城の崎にて」は志賀直哉の短編である。山の手線で事故にあい、彼は療養の為に城崎に訪れた。そこで生き物の死を三度目撃し、自分の生と死について多くを感じている。その観察眼と無駄のない文章は「至高」とされている、らしい。

恥ずかしながら、私はこれまで「城の崎にて」を読んだことがなかった。文芸館に来たのも気まぐれだったし、1日目は観光で終始してしまった。
だからこそ志賀直哉の感受性や観察眼に感嘆し、物書きの端くれとして自分ももっとアンテナを張ろうと思った。

兎に角、私のまずやるべきことは「城の崎にて」を読むことである。ということで購入した。

(「城の崎にて」の他に万城目学、湊かなえの城崎限定本も購入した。両方ともとても面白かったが、城崎でしか購入出来ない。訪れた方は是非。)

帰りの電車で「城の崎にて」を読み、読んでから来たかったなあ、と感じた。もう一度来なければならない、とも思った。

城崎に行く、ということは志賀直哉だけでなく多くの文人の跡を辿るということに他ならない。画家などその他芸術家も数多く訪れた湯治場は、観光地として発達しても尚、色濃くその風情を残している。

意識しなければならないわけではない。文人なんか知ったこっちゃないと、遊びくつろぐのも悪くはない。しかし、城崎に訪れた数々の文人は何を思ったのだろうと想像を巡らすのは、楽しい。

色々知っていることは悲しいことでもあるが、楽しいことでもある。知らなければ気づかない楽しさもたくさんある。どこを訪れるにも、その地をよく知っておくというのは大切だと感じた旅行であった。

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