#89 結局、「好き」や「情熱」のある人には敵わない
仕事について、私自身の体験を通して強く感じていることがあります。
それは、その仕事そのものが「好き」であったり、仕事を通してこの世界をより良くしたいという「情熱」を持った人には敵わないということ。
私はリハビリの専門職 (理学療法士) をしているのですが、高い志を持ってこの職を目指したわけではありません。
「手に職をつけたい」とか「子どもが産まれてからも続けやすそう」などの条件に見合ったことが、最終的にこの職を選んだ動機です。
そんなわけで、社会人一年目で早々に壁にぶち当たります。
「自分はこの仕事に向いてないんじゃないか?」
という、よくあるやつです。
(ろくに自己分析もしないで職を選んでいるのだから、当たり前といえば当たり前です。)
人のお世話をすることが嫌いではなかったので「致命的に合わない」ことはなかったのですが、学生の頃のイメージと実際の臨床現場はかなり異なるものでした。
でも、奨学金をがっつり借りて専門の大学を出ているし、当時の自分にはこの道以外の選択肢はありません。
「自分に合わない」とか甘っちょろいことは言ってられない。
とにかくなんとかしなければ!
と猛勉強を開始。週末は有料セミナーに通い、専門書や文献を読み漁り、自分が担当する患者さんのリハビリに先輩が入ってくれた場合には、直接教えを乞いにいく…そんなことを繰り返していました。
すると、だんだん知識と知識が線で結ばれ、目の前で起こっている患者さんの病状が繋がりだしてくる。
「なんか…楽しいかも」
患者さんから「ありがとう」を言ってもらえる機会も増えていきました。
最初はとくに好きでなくても、高い志がなくても、仕事にやりがいを見いだすことはできる!
そんなふうに思いはじめていました。
でも、数年するとまたもや壁にぶち当たります。
不思議と自分の中である一定のレベルを越えた途端、学ぶ意欲がぱたと途切れてしまったんです。
社会人一年目のときは、先輩との技量の差が目に見えてあったため、
「自分が担当になったことで、患者さんの本来の力 (回復の可能性) をうまく引き出せていないのでは?」
とかなり焦っていました。
「自分のせいで患者さんがよくならかった」
という罪悪感にかられるのが嫌だったから、私は患者さんではなく、私自身のために頑張っていたんです。
でも、経験を積んである程度の技術がついてくると、良くも悪くもそうした不安を感じることが少なくなりました。
一方で、この仕事を心から好きな人は、学ぶ意欲に際限がありません。
(仮)『変形性膝関節症における膝関節内転モーメントに関する最近の動向』
みたいなゴリゴリに専門的な文献を目をキラキラさせて読めるんです。
(こうして書くとちょっと変態っぽいですね)
この種の人たちは、努力を努力とすら思っていません。
あるいはリハビリの対象になる方、例えばおじいちゃん・ばあちゃん大好きで、高齢者がリハビリによって元気になることが何よりの「喜び」だという人もいました。
・・・私は、この人たちには敵わない。
どんなに努力したって、それを「努力」だと思っている時点で、本当に「好き」で「やりたいこと」ではないのかもしれないと気づかされたのです。
もちろん、仕事は勝ち負けではありません。
私だって一職業人として、微力ながらも人の役に立てているとは思います。情熱があることは良いことですが、価値提供に直結していない場合もまれにあるし、空回りしているように見えることもあります。
でも、「好きな仕事をしている」「仕事に情熱をもって取り組んでいる」人は、近くで見ていてやっぱり生き生きとしているし、幸せそうですね。
この人達みたいに働きたいなと、すごく羨ましいです。
こんなふうに思っているのに、未だにこの仕事を辞めずに続けていることが自分でもちょっと不思議です。
もちろん家庭があるから稼がなければならないというのはあります。
子どもが大きくなるとお金もかかりますからね。
でも、理由はお金だけではなさそうです。
私は、20代のほとんどをこの仕事に懸けてきました。
この仕事を通して学んだこと、得られたこともたくさんあります。
そう、「敵わない」ってあれだけ思い知らされたのに、私はこの仕事を「心から好きになれる」可能性を未だに捨てきれないのです。
何年か経った後に、
「この仕事は、私の天職でした」
と言えるかどうか
今の私には、まだ分かりません。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
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