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東日本大震災から10年 〜東京 ⇄ 相馬〜 津波と原発とそれぞれのドラマ

早いものですね。

「あっという間」というのは使っていい言葉なのか迷うところです。

その10年の重みはきっとひとそれぞれ。

そして被災された方、復興にずっとかかわっている方。
さまざまな多くの人の「10年」によっていまの東北があるんですもの。

それに比べたら、わたしの10年なんて軽いものです。

・・なんてこともまた軽々しく言えないってのもあるんですよね。

今回はそんなわたしの手記、10年前の話です


愛すべき 松川浦漁港 と お兄さんと


父の実家は福島県相馬市の松川浦という漁港のある美しい場所なんです。

市場なんか年中もうすごい活気で、人もやさしくて愛のある海街です。
小さい頃から、夏休みになると田舎に泊まりに海水浴とか釣りとか、毎年楽しみで楽しみで。

それだけ実家は「海に近い」場所なんです。

「原釜(はらがま)」というところです。
父の実家のこと、そこで暮らすみんなことは「ハマ」と呼んでいます。

この「原釜」がなまったのかな?


・・で、ですね。

相馬市の被害状況に詳しい人はこの地名でわかると思います。

ハマが「壊滅した地区」だということを。
そしてその愛すべき海街に、非情にも「あの日」がやってきます。

震災時はハマのみんなのほとんどはジャスコに買い物に行っていました。

ただひとり、ハマの家で留守番をしていたのは父のお兄さん。
地震で落ちた屋根の瓦をどうやら片づけていたらしいです。

その数分後ですね。

お兄さんは津波で家屋ごと、いや周辺のすべてものと一緒にかき消されてしまいました。

もちろん避難指示はでていたらしいですが、お兄さんは生粋の海街の漁師。いままでも何度も警報による「肩透かし」を味わって、仕事を中断させられていた人。

逃げないですよね、そりゃ。

「そんなまさか」の感情が勝って当然なんですよね、きっと。

そもそも本当の危機感をもって避難したひとなんて周辺にいたのでしょうか?

とても言葉数の少ないシャイな人でしたが、愛の深いひとでした。

わたしがまだ小学生くらい頃の話です。
明け方に突然の歯痛で大泣きしていると、颯爽と近くの歯医者のドアをドンドン叩いて

「あけろーうちのがたいへんなんだ!」といって、わたしを助けてくれました。

かっこよかったなー、ヒーローですよ。


忠犬ちゃー坊 と 再会


ハマで飼っている柴犬「ちゃー坊」は震災時はお兄さんと一緒でした。

そして、やはり津波のあと行方不明になってしまいました。

ハマのみんなはお兄さんの捜索で、何度も「家と街がかつてあった場所」に通いました。

10日くらい過ぎたあたりで、遺体安置所でお兄さんを発見しました。

生存の可能性を信じてなかったわけではなかった、でも。
各地の安置所を周り、信じられないたくさんの遺体を目の当たりにてその希望はついえたと。

そしてどちらかというと、みんなは

「せめて遺体でも返ってきてくれてよかった」
という複雑な気持ちだったみたいです。

あの惨事、、遺体も返らず。
心の在り方もわからず、ずっと苦しんでいるご遺族の方もとても多いですから。

さらに10日ほど経って、少し状況も落ち着いて家屋の跡地にお線香をあげに行ったときのこと。

親戚のお姉ちゃんが、聞き覚えのある鳴き声を微かにきいたらしく。

しばらく大きな声で周辺をぐるぐる歩きながら
「ちゃー!ちゃー!(ちゃー坊の呼び名)」と何度も呼びかけていた。

すると遠くから「ワォォォ〜〜ン」と、か細い声が返ってきた。

「ちゃー坊だ!」

鳴き声の方をみると、ちゃー坊が一生懸命にガレキに足をとられながら、走ってきた。
やせ細ってふらふらの状態だったそうです。

ちゃー坊も、震災から20日余り、このガレキの山でひとりでずっと家族を捜していたんだな、と思ったら胸が苦しくなりました。

姉ちゃんとちゃー坊は一心同体、ほんと仲良しだったのでその想いがきっと通じたのでしょう。

帰ってきてくれてありがとう、ちゃー坊。


新地へ 自給自足の家


震災直後、父と母は捜索の手伝いとたくさんの救援物資。
避難所にいるハマみんなを、東京に連れ帰ってくるために福島にたちました。

わたしも本当は一緒に飛び出したい気持ちだったのです。
しかし、東京での受け入れ体制を万全にするためにこちらに残ることにしました。

逐一、両親や親戚らと連絡を取り合いながら状況を把握していました。

両親が最初に向かったのは、親戚のお姉ちゃんが嫁いだ先「新地」というところです。
海街からは離れていたため、被害は少なく備蓄も潤沢にありました。

その家は農家だったのです、自給自足は改めて強いなと思いました。
水・食糧・電気までライフライン全て自前なんですもの。

両親は救援物資と「なにか助けになれば」と行ったはずなんです
でも逆に「遠いところよくきたね」もてなされたみたいです

わたしもかつて何度もお世話になり、そこのおばあちゃんがキュートで大好きなんです。

そのおばあちゃんの漬けた梅干しが美味しくて、行くたびに壺ごとお土産にくれました

避難所にいたハマのみんなは、そこでお世話になることになりました。
そのあとすぐ、運よく仮設住宅も割り当てられました。

福島 ⇄ 東京で情報が錯綜する中、ずっと心配しっぱなしでしたが、やっとひと安心できた一報でした。

なので東京に連れて帰る計画は白紙にと、みんなもやっと少し安心した矢先のこと。

そうです、原発の問題です。


南相馬から東京へ


別の親戚の家族は、南相馬の原発のそばに震災の一年前ほどに立派な一軒家を建てたばかりでした。

原発周辺のひとたちは、それはもう町ごとの避難なので受入先も見つからず路頭に迷うひとも多かったみたいです。

そしてその路頭に迷っていた親戚らの家族。

おじいちゃんおばあちゃん、お母さん、そして姪っ子ちゃん3姉妹。
計6人を東京で受け入れることになりました。

そんなに広くない東京の家での賑やかな9人暮らし。準備は万全だったため、バタバタはせずにすぐに馴染みました。

でもやっぱり皆、「このさきのどうなるんだろう」という不安な表情。
震災の恐怖が払拭できず、困惑した顔で毎日を送ってました。

明るくはふるまってはいましたが、やっぱり所在ない雰囲気はずっとで。

ただ姪っ子の次女(当時高校2年)だけ「せっかく東京きたんだから楽しもうー」って。
東京にも知り合いがいたらしく原宿や渋谷やら、遊び歩いてましたね(笑)

3姉妹は年子で、しっかり者の長女、破天な次女、シャイな三女。
みんなかわいいので、短い期間だったけどわたしも一緒に暮らせて楽しかった。

「せめて楽しい思い出を」と、ちょっとオシャレなカフェに連れて行ったり
一緒に買い出しして、お料理教室ひらいてみたり(一応、わたし調理師免許あるんで)
少しは気分転換になってくれたのかな?と思います。

彼女らのお父さんは和菓子屋2代目で、やり手の社長。

震災後も福島、宮城での東奔西走の甲斐もあって、震災から1か月ほどで仙台に住めるところの準備をしてくれました。

お父さん、かっこいい!

我が家での「突然の大家族化」は三週間ほどで終わり。
今度はわたしの運転で皆をのせて、福島へ行きました。

次女だけ「東京に残りたいオーラ」がすごかったのを覚えています(笑)

普段乗りなれない大きな車で9人のドライブ。常磐道は通行止めでしたし、通行可能の道も限定されていていました。

東北道と一般道で、遠回りにつぐ遠回りの”水曜どうでしょう”ばりの長旅でした。

行く道すがらも、道路もあちこちで地割れが起こっていたり
家屋が倒壊、電柱が倒れていたり、被害の規模を再確認しました。

そして、福島の看板がようやくみえて「長かった〜」と背伸びする間もなく
わたしは福島の変わり果てた姿に目を疑いました。


東京から相馬・瓦礫のまちへ


大人になっても毎年必ず、訪れていたんですよ。
冠婚葬祭があると、年に何回もです。

どこになにがあって、全部知ってる小さいころからのずっと思い出がたくさんある街です。

ハマの家の跡地に向かう道。
松川浦漁港の看板をみかけ、かすかな潮のかほりがしてきたころには・・。

倒壊した家屋の山
建物の二階の乗りあげられた漁船
信号機の上にぶら下がった衣服
ボロボロになった車が何台も積み重ねてある田んぼ

ディストピア系の映画のセットなんじゃないかと思うくらい現実離れした光景でした。

その想いも束の間、予想外の言葉を父から聞きました。

「まだこのへんは無事だった」

正直、「は?」と疑問符しか浮かばなかったですね。

そして漁港に近くまできて、海岸のそばの道。

道路から海面の高さって、普段は建物1階分くらいの高さはあったんですよ。それが、道路ギリギリまで海面がきていて、もうほんと普通じゃないんだと思いました。

漁港の市場のあった場所付近、父に「あそこだったらしいよ市場」といわれても・・
もう視界に入るものはガレキと海と空のみ。

思い出の中の風景とリンクさせるなんてことは不可能でした。

「なにもない、なにも」と

さっきの父の言葉を理解しました。

よく地獄絵図とかいうけれど

「これが俗にいう”地獄絵図”だというのなら殺風景がすぎる」と思うほどでした。

そしてハマの家の跡地へ。

家の基礎工事の微かな痕跡で、間取りがギリギリ判別できるくらいでした。

「あのへん、お風呂だった・・よね?」くらいです。

もうその頃は「あの日」から3週間か1か月後だったので、それでも周囲は片付いていたとのことでした。

道は道として車も通行できましたし、この状況下で落胆する間もなく復興へ手を伸ばしている人がたくさんいることに感謝しかなかったです。

その時にわたしがハマにきているという話をきいて
親戚のお姉ちゃんが「ちゃー坊」を連れてやってきてくれました。

「こっから、あっちの方向でこの子の声がきこえて、向こうから走ってきたんだよ」

と、ちゃー坊との再会の話を細かく教えてくれて、わたしは泣き崩れました。

わたしもちゃー坊とは、大の仲良しだったから

ほんとえらかったね、ちゃー坊


ちなみに

父の実家は火災保険、地震保険に加えて、家財保険、なんちゃら保険となんだかいろいろすごい保険に入ってたらしく。

震災から半年ほどで、保険金で一軒家を建てました。ハマの跡地から、車で10分ほどの高台ですね。

大好きなちゃー坊は三年前に老衰で他界しました。
ありがとうね、大好きだったよちゃー坊。


10年のドラマ


震災から、何度も福島を訪れ

たくさんのひと
たくさんの景色
たくさんの想い

いろいろ触れて考える機会がありました。


原発の問題

姪っ子3人のお父さんの和菓子屋さんは東京電力の補償金の出し渋りにより倒産しました。

当初でる予定の金額の10分1も結局は出さなかったらしいです。
しかもそのお金がでたのは震災からかなり経ったあとだったとのことで・・。

震災後も、拠点を宮城に移し頑張っていたのですが、それでも企業の体力がもたず。
クラウドファンティングで回帰を計るも資金が集まらず、とても悲しいことでした。

福島・宮城あたりなら知ってる人もいるのでしょうか?

「もち処・木乃幡」というお店。
そこの「凍天」という、ヨモギ餅を衣で揚げたお菓子。


もう大好きで、福島に行くごとに大量に買って冷凍してました。

地震さえなければ、いま頃は全国知れ渡るほどの銘菓になっていたんでしょうね、きっと。

※2021年6月!凍天復活したそうです!!
すげーーーー!!!!


そんな悲喜こもごものドラマがひとの数だけ、涙や笑いの数だけあったんでしょう。

震災から10年、被災したかた、復興に携わった方、ボランティアや消防団の方。
メディアで震災のことを知り、何か奮起したかた、義捐金を募ってくれた方。

きっと日本中で、震災よるドラマが生まれました。

そして、いまもそのドラマは続いていて、そこからまた新しいドラマが、と。ずっとバトンはつながっていくのでしょう。

この震災は福島・東北のことだけではなく「日本のできごと」なんですよ、きっと。

震災から10年の区切りに
「この10年のわたしのドラマ」「この先10年のわたしのドラマ」を立ち返り、未来をみていこうと思います。

福島の皆さん、東北の皆さん、そしてこれを読んでくれた皆さん
読んでない皆さんも、すべての人に、この先の10年とその先に

たくさんの愛が降り注ぎますように。

2011.3.11 から 2021.3.11 そしてもっと先へ  黙祷



本サイト「ヒナレコ 」から、記事のお引越ししました。
ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。


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