あなたは「生活」をしているか?
その実悦子が怖がっているのは都会ではなくて、ただ単に生活そのものではなかったであろうか?
(愛の渇きー三島由紀夫, 1950)
「生活」というものを意識したことがない。
生活とは何か。
朝起きて、朝ごはんを食べて、着替えて、歯を磨いて、電車に乗って、どこかに行って、何かをして、家に帰って、食べて、テレビ見て、お風呂はいって、寝ること。
なんというか、生活というのは空気と同じで、あるとかないとか、そういう物体的なものではないと思っていた。
しかしどうやら生活というものは「ある」ものらしい。
私がこの一節を読んだ時思い出したのは、星野源という男が紡いだ言葉だった。
意味なんか ないさ暮らしがあるだけ
(恋ー星野源)
湯気には生活のメロディ
(アイデアー星野源)
生活や暮らしが、まるで人格を持った有機的な何かに聞こえる。
彼もまた「生活」を恐れているのではないだろうか。わからないけど。
また、「愛の渇き」に出てくる人物は皆一様に「生活」を恐れていたしそこには「日常」があった。
二つに共通することは、とにかくそこに「生活」があることだ。みんな生活という存在を意識しているということだ。
私は日々有機的に「生きている」つもりであったが、また別次元で「生活をする」という概念があるらしい。知らなかった。だとしたら私は生活をしていなかったんだろうか?
そうなってくると、悦子の方がよっぽどイキイキと人生を生きているように見えた。ヘンリー・D・ソローが森で生活したことに感銘を受けて、私があれをバイブルとしてしまうこともなんだか共通している気がする。
living is so dear.
(Walden- Henry D. Thoreau)
私は生きるということがそんなにもたいせつなことだと思ったんじゃなかったのか?
というかもしかしてこの"living"って、「生きる」というより「生活」に近かったのではないか?だってソローは「自活」を目指したのだもの。
え、じゃあ私にとって「生きる」とはどういうことだったのだろうか?
これから「生きる」ってどういうことを意味するようになるんだろうか。
答えが出たわけじゃないけれど、帰り道の一歩一歩がなんだか違う感触な気がするのであった。
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