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″大切なコト″と″大切なモノ″#02

 最近疑問に思うことがある
現代人の言語能力というかコミュニケーション能力は、たとえば100年前に比べて変わら無いのか
それとも進化・成長しているのか
はたまた低下しているのか

コミュニケーションの手段となるツールの技術発展は目ざましい
また手段の一部である言語、言葉、文字、図表、写真、音、音楽等々という
ものは微細ながらにも時代と共に変化している部分はあるだろう
そうした取り巻く環境自体は変化している中で、人の能力は
果たして比例するように進化しているのだろうか

何をもって比較評価するかという点で、定量化しようがない事柄だからどうでもいいことかもしれないが
目に余る光景が、あまりにも日常風景の中に散見されると感じているからだ


 先日コンビニで50代の店長らしき男性と40、50代の女性がレジで揉めている場面に出会した

どうやらペイペイの支払か何か、電子決済について揉めている様子なのだが
はたから見ていても、両者の話が全く噛み合っていないのである

男性店員はよく聞き、質問に対する答えを返そうと丁寧に説明している様子であるが
年配女性の方は、感情論を一方的に捲し立てているばかりで主張したい論点もなんだか見えてこない

おまけに相手男性が質問したり、話しているのを遮るようにして被せるものだから全く埒が開く気配がない

 そうした光景を他所に、会計を待つ人の列は伸びる一方

その状況を察したのか、バックヤードから慌てて出てきた女性店員が
「こちらへどうぞー」と別のレジを開けて
無限とも思われた待ち時間は解消されたのである

言葉にはしなかったが「どうもすみません」と申し訳なさそうにする彼女の表情と振る舞いには
いわゆる非言語化情報としてこちらに十分に伝わってくる

「あ、大変ですね。ありがとうございます。」
思わず口にしたくなるがここでそう口にして、もし横耳に入ってしまったものなら
火に水を注ぐようなものなので、私も口には出さなかったが
きっと私の顔もそういう顔だっただろうと思う

年齢関係なく、こうした相互理解に対する互いの努力や工夫を前提とした
コミュニケーションの欠如は仕事における上司部下の関係や、クライアントとの間などでもしばしば見られる

しかし、意外な落とし穴だと思っているのは「家族間」である
夫婦、親子いずれの関係性にせよ、最も近く、またさも分かり合っているかのような勘違いを起こしてしまいやすい落とし穴が潜んでいる

いつも同じ屋根で暮らしているとはいえ
自分でない「他人」という存在に対し
大前提をつい忘れてしまいがちなのだ…
私は毎日毎日反省の日々である

人間関係というのは本当に面倒だと思うこともあるが
本来良好な人間関係は、家庭生活も仕事や交友関係も
有意義することができるはずなのに…

こうした問題は結局のところ
成人し年齢を重ね続ける上で自己の精神が確立していき
思考や価値観の柔軟性や多様性を失う
変化することを拒み、今の自分を誇示し続ける
そんな「大人(とされる人)」の存在なのだと感じざるを得ない
娘たちの姿を日常目にし、成長に触れながら余計に感じてしまう

成人し学業から離れて以降、大人としての学びに昇華させられるか
はとても大切だと思うのだ
あえて「大人の」と表現したが、幼き頃自己反省という繰り返しを通じて日々学んでいったように
大人になっても内観、内省を通じた反省という習慣は必要だと私は思っている

子供の時分は、親や年長者などの他者の介在を経る、いわゆる「構ってもらえる立場」なわけだが、大人になると「構ってもらえない」
はある意味当然であり、「自分の問題は自分で解決しなさい」みたいな部分はより色濃く求められる
しかし「構って貰えない、教えてもらってない、聞いてない」と他責丸出しの大人は後を絶たない

ある程度、大人=問題解決能力がある程度備わっている
が前提となると思うのだが…
残念ながら職場でもそうした人間は、極一握りといった感が正直否めないというのは言い過ぎなのだろうか

「お」

 前述にも通ずるが、
「お互い様」、「お陰様で」という言葉にいい言葉だなと感じている
人間が社会生活を営む上で、相互扶助の精神というのは
欠かしてはならないモノのひとつであるし
私自身もこの精神の和(輪)の中で今こうして生きていると実感しているからだ

人間関係に揉め事、イザコザみたいなことは付き物であろう
誤解が誤解を生み、すれ違いやエゴとエゴの衝突みたいなことで嫌気がさす
というような独特の煩わしさはよくわかる

そうしたことによく巻き込まれてしまい、まるで隣家の火事で己に降りかかってくる火の粉を消化することで参ってしまいそうな。とんだとばっちりみたなことも少なくない

私が趣味の写真・カメラを通じて良かったなと感じることは
別の視点を検討、想像する
という点であり、人間関係でいうと例えば相手の立場で考えてみる
ということであったり、一種の多面的に物事を考えてみるということに
抵抗感があまりないといった点だ
これは写真を撮影するにあたって通ずる部分は大いにあると思っている

写真を撮影するとき
・被写体と被写体との位置関係や距離
・周囲の環境や状況
・今手持ちの機材とその特性
・切り取る瞬間と切り取った写真(結果)のイメージ
・イメージの再現に近しい光量の算出
等々
様々な要素を含めて、その時、その場所でいろいろな写真=結果というのがあり得るということを前提に自ら選択し、実際にシャッターを切るという一連の行為に至るまで意識的に行っている

プロの写真家の人たちは、実際こういった一連の判断と行動が、意識的にというよりもむしろ「反射」に限りなく近い水準でできるのだろう

正に、数多の訓練によってなされる賜物


必ずしも直接的に繋がらないにしても、自分の身の回りに起こること、自ら選択した判断と行為は因果に関わっている

人が自らを人間たらしめるは、人間であるが故の哲学する行為と、それに並行してもたらされる自己革新という果実である
その果実が実るか、腐って枯れ果てるか
それを決定づけるは根(人格)と土壌(環境)と陽(師)
人はこれらを与えられずして、自らの意思で選択し育むことができる
(持論)


そうした認識をもちながら、日々の営みを味わって生きていきたいものだと感じるのである

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