ネグレクトを受けていた私が始めて母親に感謝できたとき
私は何も出来なかった。
勉強も音楽も算数も。
友達もいなかった。
いつもどんくさくて、一番後ろだった。
男の子にいつもいじめられて、いつも泣いてた。
授業参観でお母さんが来てくれた時、嬉しくて手を挙げたけど、計算が出来なくて何も答えられなかった。
ピアノが当たり前に弾けて、楽譜を読める子がたくさんいた。
私は鍵盤ハーモニカすら触ったことなくて、歌も知らなくていつもいつも友達に「いいなー」って言っていた。
みんなが楽しみにする水泳訓練、
私のお家はお金がなくて、水着が買えなかった。
授業は【家庭事情】でお休みしていた
「なんでみなこちゃんプール入らないのー?」って
友達にたくさん聞かれた。
「プール入りたい?」ってお母さんに聞かれて
気を使って「(入らなくても)大丈夫!」って答えた。
だって、お金がかかったらお母さん困るから。
小学校が始まるとき、私のペンケースや上履き、服をそろえながら
「あんたがいるからお金がかかる!」って言ってたから。
ランドセルを買うかどうかで、おじいちゃんと喧嘩してたから
私は静かにしてなきゃいけない、迷惑かけちゃいけないんだ。
小学生に上がるのをきっかけに、おふろの回数と洋服が増えた
おふろはたまに入れたらいい方だったし、服なんて何日も変えないのは当たり前だった。
学校に行くようになってから、服が2着くらい増えて、変えるのは3日に一回に増えた。
髪の毛を結んでもらえるのが嬉しかった。
新しいジャンパーが嬉しかった。
自分のお家で、友達を呼んで誕生日会をするのが夢だった。
遠足で日の丸弁当が恥ずかしかった。
弁当箱も鉄のへんなやつで、
友達同士が楽しそうにしているおかず交換が出来なくて
隠れてお弁当を食べる私に、先生がウィンナーをくれた。
嬉しかった。
その遠足からお家に帰ってきたら、新しい弟がいた。
3人目の孝宏だった。
そのあと少したって、私はお母さんと離れ、1番目の弟と児童相談所に入所した。
1ヶ月ほど経って、「学校に行きたい?」と聞かれ、「行きたい!」と答えた。
その数日後に児童相談所の退所が決まり、お母さんと弟と暮らせると思ったけど、行った先は、児童養護施設のエリザベスサンダースホームだった。
雨のなか、100mを超える長いトンネルを越え、お母さんと離れた。
7歳だった。
それ以降、お母さんが会いにくることも、迎えに来ることも二度となかった。
私、28歳になりました!
お母さんに会いたくて寂しい時期もあったし、育ててくれなかった!と怨みました。
でも、今は感謝しています。
二十歳でわたしを産むのは大変だったと思います。
産んだ理由がなんであれ、産んでくれてありがとう。
あのとき、勇気を持って私を施設に預けてくれてありがとう。
私は、お母さんが私を施設に預けたときの年齢になりました。
私もこの4月で小学一年生になる息子がいます。
お母さんはどんな気持ちで私に接してくれていたのか。
どんな気持ちで、施設に預けたんだろう。
お母さんの立場に立って、やっと考えられるようになりました。
なんだか変な感じです。涙が止まりません。
お母さん、私を産んでくれてありがとう
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(7才まで親からの虐待を受けていた私が、28才、息子8才のときに、始めて母親に感謝できたときの心境をつづった記事)
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