朝の6時、息子が起きて動き回っているのがわかる。
ハイハイであちこちを移動して、私のメガネを口にくわえている。
メガネに飽きると、「たいたいたい!」「ぱっぱっぱ?」と私の頬を叩いて、仕方がないので身体を起こすと、嬉しそうに笑って抱きついてくる。
眠たくて、もっと寝かせてくれよと思うことも多い朝だけれど、私はこの時間がとても好きだ。


最愛の息子は、私を捨てた父親と同じ誕生日に生まれた。

深夜、陣痛に苦しみながら夫の運転で産院に向かう中、
「今日産まれたら嫌だけどもう耐えられない」と私は小さく呟き、夫は困った顔をしていた。


私にとって、妊娠出産は自分がいかに弱いのかということを思い知る経験だった。

妊娠中はいつか終わると思っていたつわりが終わらないまま妊娠後期を迎え、どうして私は他の妊婦とは違うのだろうと毎日絶望しては泣いた。
無事に生まれてくるのかと毎日不安に思い、妊娠していることは極力人に伝えないようにしていた。
「楽しい妊婦生活を送ってね」と悪気なく声を掛けられる度、自分にはそれができないのだとつわりで嘔吐しながら思った。

陣痛が始まってから出産まで、24時間以上かかった。我ながら壮絶な出産だった。
その影響で産後は尾てい骨を痛めてしまい、1ヶ月近くまともに歩けず、座れない生活を送った。
赤ちゃんを抱っこしてスタスタ歩く人を見かける度、どうして私にはできないのだろうと死にたくなった。
駐車場から家までのわずかな距離すら歩くことができず、夫に抱えられて何とかたどり着いたこともある。
私にはできないことが多いな、それなのに母になって良かったのだろうか、と毎晩毎晩考えては泣いた。


息子が急に歩き出した。数日前のことだ。

普段は5歩くらい歩いてはハイハイをしていたのに、本当に突然の出来事だった。
楽しそうに家中を歩き回り、目では追えない場所まで一人で歩いて行き、そのまま方向転換をして戻って来る。
その時に私の姿を見つけると、更に嬉しそうに笑い、小走りになりながら頭ごと私に突っ込んでくる。
「あ!そんなことしたら痛いよ」と私は笑うのだけれど、気が付くと泣いてしまっていた。
涙でいっぱいになる私の顔を、息子は不思議そうに眺める。そして小さな手で私の顔を叩く。
お母さん、いつも泣いてるね。ごめんね。もう慣れっこだよね。

全部、忘れたくなかった。
あなたを産む直前、「ちゃんと見たいのでメガネを下さい!」と助産師さんに叫んだこと。
産まれるやいなや、大泣きするあなたを見て、母になったと思った瞬間。
あなたが泣いていても身体が痛くて動けず、這いつくばって抱きしめにいったこと。
哺乳瓶を投げたあの日。産後うつですねと言われた日の絶望。
それでもあなたはきちんと育っていて、泣いてばかりの私を見て笑ってくれたよね。
初めて寝返りをした。初めてご飯を食べた。自分でゲップが出せた。
ズリバイとも言えないような不格好な動きをしながら、私に近寄ってきてくれたこと。
泣きやんでくれなくて、一緒に声を出して泣いていたら、「キャハハ」と笑われた日。
月を見上げながら、もう今日こそは死ぬぞと思ったこと。その時の私を見つめるあなたの瞳。
初めて「助けてください」と保健師さんに電話した日。「よく頼ってくれましたね」と肩をさすられた事。
笑った時に少ししゃくれる口。涙でいっぱいの大きな瞳。汗でびっしょりと濡れた髪。いつも手の中に握っているホコリも。
あなたの瞳には何がうつっていたのかな。泣いてばかりいる私は、どんなふうに見えていたのかな。

そんなあなたが、いつの間にか一歳になって、
今はゆっくりゆっくりとおぼつかない足取りで、私に向かってきては抱き着いてくる。
口から出る言葉は「え?」「へけ?」「あじゃ!」と言った言葉だけなのに、私の頭の中では勝手に全て変換されていて、
「ありがとう。ママも大好きだよ」と返す。こんなママと一緒に生きてくれてありがとう。

全部全部忘れたくないんだよ。
あなたとの思い出は本当に全てが宝物で、かき集めてもかき集めても足りなくて、忘れたくないんだと必死になればなるほど、手の隙間からこぼれ落ちては光になって。
そのまま夜が明けてしまって、その光はどこかに行ってしまう。
それでもね、夜が来るとたまに教えてくれる。だいじょうぶ、ここにいるよ。


「息子くんはね、お父さんとの悲しい思い出を忘れさせるためにこの日に生まれたんだよ」

ある人にそう言われた時、なんて親孝行な子なんだと思った。
予定日よりも2週間も早く生まれてきたわが子は、私を生かすために生まれてきたのかもしれない。
誕生日が来る度に思い出す悲しい記憶も、いつかは息子の光に照らされて見えなくなって、溶けてしまえばいい。
そんな風に思えるようになったのは、つい最近のこと。

私が初めて歩いた時、私の両親はどう思ったのかな。
嬉しくて泣いた?不格好だなと笑ったのかな。私みたいにさ、「忘れたくない」って思ってくれた?
一生聞くことのできない質問を、今日も想像しては考える。
悲しいなあ、悲しいね。でも、生きなくちゃ。

明日こそはあなたを連れて散歩に行くよ。
できないことばかり数えてしまう母親だけれど、あなたにはそうなって欲しくないから。
外に出て笑おうね。明日も明後日も。

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