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人を育てるのに悩まないでなんてできない。

昔から悩み過ぎ❗️と言われてきました。
事柄的なことではなくて人間相手のことです。
一つ一つのことに結構敏感に反応してしまって、私はときに逡巡し、時間を取ってしまうのです。
そんな私を見て、
勿体ないなあ・・・。
と言ってくれる人もいました。

ただいつも考えてばかりいるので、いつも国語だけはとてもよかったのです。
大学の専門教養でも、知識的なことよりも自分で考えだすような授業での取り組みは大好きでした。

若いころは考えすぎ、悩みすぎだと言って周りに注意されていたのですが、最近ではそれが良かったのかなあ、と思えるようになってきました。

以前ドラマで『白い巨塔』というドラマを観ていました。
中学1年の時に観た『白い巨塔』は財前先生を田宮二郎が、そして里見先生と山本学さんが演じておられ、まだ何もわからないような年齢の自分でもそれは結構感銘を受けるものでした。

出世競争に勝ち上がりたい外科医の財前先生と同期であり、医療とはなにか?と考え続ける里見先生の姿、それを支える学者の大河内先生がなんとも清廉に思えました。
その作品が子育て真っ最中の2000年代にまた主演の財前先生役を唐沢寿明、里見先生役を江口洋介という配役でドラマ化されました。
ママ友ランチに行ってもその話題になるくらい周りの人も含めて夢中になっていました。
教師同士の食事会でも、
里見先生のような医者はどこにもおらんて・・・。
と年配の先生がおっしゃったら、もう少しお若い先輩が、
いやどこの世界にもああいう人はいると思いますよ・・・。
とおっしゃったという具合でした。

私はというと、かかりつけ医の先生と、その原作がいつ書かれたものか?あるいはドラマがいつ放映されたかの論争になり、
僕観てたもん。
と言われ、
私は原作読みましたけど・・・。
と無益なことを言い合い、これは無駄だわ、と思って引いたら、
やっぱり何年前やわ・・・。
とご自分の記憶が間違っておられたことはお認めになったという笑い話のような笑い話(笑)がありました。

私が、里見先生ってバカですよねえ・・・。
バカだってことはわかるけど、同じ立場になったら絶対に同じことをすると思う。
と言ってしまいました。
里見先生は、医療の正しさにこだわり、病院の立場を考慮せず(これは結構大人な書き方だけど。)、訴訟の中で相手側に有利な証言をするのです。
それは同期の財前の立場を陥れるものでもありました。
当然大学病院でなくても企業であっても同様な結果になるだろうけど、今ならそれを認められるけど、当然里見先生は大学病院にはいられなくなります。

里見先生がバカかどうかはわからんけど、里見先生のようなことをすると、まあああいうことになる・・・。国立はな。私立は違うよ・・・。

と変なことを教えられました。
うちにはお医者様の親戚がいないので、よく知らない世界でした。

財前先生と里見先生が二人で話していたときに、財前先生が、
○○だから、里見、僕は教授になるよ・・・。
と言ったのに対して、里見先生が、
僕は悩み続けることで医者であり続ける・・・。
という意味のことを言っていました。
当時、私には、財前先生の、だから教授になる、の言葉の意味は分からなかったのです。でも、里見先生の悩み続けることで医師であり続ける、という言葉の意味は全く違う仕事だし、そんなに優秀でもないけど、私にもわかりました。

山本学が、この後でドラマ化された作品を、批判したというのを何かで読んだことがありました。どうもなにかをもって、ドラマではない、と表現されていたと記憶しています。
私も、最初の作品とは違って、ストーリーの必然性とが感じにくいというか、出来事が事柄として描かれているようでちょっと違和感がありました。
その最たる場面がその場面でした。

ただ若かったのかもしれません。
教授になればできることも多いし、変革もできる、という意味だったのでしょうか?。
ただ、私はその仕事に対して、これでいいのだろうか?と悩み続ける姿に共感したのです。
どこに所属するとかどういう人間関係があるとか以前に、その仕事というものが存在するとは思います。
たとえば教師もそうです。
どこかの学園に所属はするけど、そしてその組織の中の人間として動きはしますが、それ以前に教師であるという厳然とした事実は、いえ真実はあります。
その教師であろうとする中で、これでいいのだろうか?と悩み続けることなく、どこかで自信を持ってしまい、それが己に対する過信になり、これでいいのだろうか?という気持ちがなくなったら、教師としての進歩は止まります。第一時代は移るし、それに伴い生徒も変わる。
だから生きて行くうえで、悩まないより悩む方がいいのかもしれない?と思い始めてもいます。
少なくとも、ただただ忙しい子育て時代の、常に誰かのことばかり考えて、何かするにも誰かのためというのが付きまとっていた時代を経て、ある程度自分の人生というものについて考える時期に来て、ああ、一つ一つの悩みって、もしかしたらきっちりと目の前にあることから逃げないでしっかり対処してきたということなのかもしれないなあ、と思うようになりました。
なぜなら、何かをしようとするときには大抵、準備が整っているのです。
たとえば9年前に開業した時は、そのもう同じくらい前には、宮仕えは合わないなあ・・・、教育の世界で生きて行くならいずれ開業することになるだろう、と思っていましたが、開業する頃には、そう思った頃からその時まで、心してあちこち教育の世界を渡り歩いてきたことで、ほとんど知らないことがなかったのです。まあ知らなくとも経験的に身についていたので自然な流れで仕事をすることができました。

また、最近新たなことを始めていますが、これも開業した頃から気になっていた分野ではあるし、それ以前から形は違うがその世界に踏み出そうと思っていたことがありました。
件の先生に、以前その話をすると、そんなことできるわけない、と言わんばかりに揶揄われていましたが、今なら私がそれを告げても驚かれはしないと思います。というより散々驚かせてきたので、もうちょっとやそっとでは驚いたりはされないだろうし。

そしてその分野ですが、機材は一通りそろっていたのです。
最近無駄だったと思い詰めていたことのあるものまでその仕事に役に立つことがわかって、なぜか自分が人生の中で思いつくことと言ったらだいたいこんな風にその未来につながっているのだと確信したのです。

嫌いだった高校時代。
みんなが素敵だというけど、ちょっと違うやろ?と思い続けていた高校時代。さっきもなぜ嫌だったのかということをある人と話していました。
今の私には生徒たちも高校生でもあるので旬の話題であり続けています。
それも私なりの悩みでした。
でもだからこそ生徒に語ることができるし生徒の悩みに付き合うこともできます。
昨日も教室の開校を待つ生徒に聞いてみると、やはり私と話がしたかったらしいのです。彼の悩みは聴いていると高校に入学した頃に感じたことに似ていて、シチュエーションも相当似ていたので、わかるなどと言ってはいけないけれど、まあきっとこういうことだろうな、という程度の想像はつきました。
紐解くことのできるような言葉を掛けて、ちょっと解決のヒントになるかな?と思うような言葉を掛けたら幾分スッキリした様子でした。
よかったな、と思いました。

かつて自分が一生懸命に考えたことが今に生きて、そして誰かの役に立っている。
だったらやっぱり、その都度悩んだことは無駄ではなかった。

数年前海外駐在する旦那さんのために自分の仕事も辞め、それまで一緒に住んでいたマンションも処分して駐在先についていくことにした高校の後輩と電話で話しました。
子どもを育てた自分にとって、子作りしてきます・・・、という彼女の言が全体的になんとも幼く感じました。
私のことを、先輩は何でいつも逡巡しているのかなあ・・・、と思ってました。
と言っていました。
逡巡していた分、私には言葉があるのです。
子どもがいたら、ペットを持っている同士の会話があるように、子どもを持っていたら、子どもを持つ人同士の会話ができるじゃないですか?
と言われて、エッ!?子どもとペットが同じ?と思ったし、
先輩は子どもを早くに産んだメリットをもっと感じるべきやわ。
と言われて、子どもを持つメリット?と不思議にも思いました。
仕事のキャリアなどのことを言っているのはわかりました。
でも、子育てって命がけで子どもを育てることで、誰かと話を共有するためのようなそんな簡単なことではない。それに子どもはいつの時代に授かったとしてもその時代での尊い出会いとして必死に育てるしかなありません。
私が厳密に過ぎるのかもしれません。
でも感覚が違う。
子どもを授かり、子どもを産むということの感覚が違う。
それに、どうも他人軸で、一般的な世間的なスタンダードに縛られ、その価値観から身動きできなさそうに思いました。
わからなくはありません。
子どもを持たない人の気持ちも想像できないわけではないのです。
でもね、自分の人生なんだから、もっと自分でしっかり定義して、私はこれで行く、というものを自分で持っていてもいいと思うのです。
海外旅行にお二人でたくさん行って来られたご夫妻です。
これからディンクスよろしく楽しんでくればいい。
ほかの人が羨むほどの楽しさを味わえば子どもだけが人生ではないと思うこともあるでしょう。
やせ我慢でもいい。
ちゃんと自分の人生を自分の言葉で構築して楽しんでほしい。
私は子どもがいなくて可哀想だとも思わないし、羨ましいとも思わない。
ましてや私は産んだから~、などと言う気も毛頭ない。
人の努力を横に置いて(少なくとも子どもを産んで育ててというのは必死の努力の積み重ねです。)、ただただ早く授かったことのメリット、と言われても、困る。第一メリットなんて子どもたちに失礼です。

私に偉そうに悩みすぎると言ってきた人たちに言いたいのです。
悩んできたから今も教師を続けています。
親としてもずっと考えてきました。
その過程の悩みによって自分の中で生み出されたものは全く私のものです。
だから、これからもきっと私は悩み続けると思います。

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