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仕事を進める上での効率と人間関係

まあね、仕事をしていると大抵の悩みは人間関係である。
学校現場にいても、意外に生徒相手に悩むことは少なくて、職員室の人間関係で悩むことが多い。

まあ、結構プライドの高い高校教師(出身大学など関係なく?)。初任の学校では中学部も同じ職員室だったけど、それを言ってしまったら、逆に自分の考えていることが見透かされて嫌ではないかな?というような、逆の意味でプライドのない、というか日本語における誇りがないというか、そういう振る舞いも見聞きした。

私は何かにそういう人間関係に気付かないのであるが、他教科間のあれこれというのもあったのだろうと思う。
だいたい国語科って、勉強していないことを思い切り表している教科だと思っていた。まさか国語科が割とできる的な立ち位置の教科だと思われるとも思っていなかった。

私が出身校を気にしていたとすれば、自分がそこの場に適した人間かということを知るためだった。
でも、やはり面倒くさい人はいた。
高校教諭をするには、ほかの人たちに比して、確かに珍しい学校からの人もいらした。男性で。単純に少ないというだけであって、教員免許をもち、採用試験に合格すれば、誰だって同じ条件の教師である。
それに私だってただの学部卒。高校の先生は大学院卒であるべき、と言われたら、それでやってていいの?ということになる。

私はそうだからとそれを意識したことなどなかった。
ただ、あまりにご自身がそのことを気にされるので、やりにくいったらなかった。
それに、ほかの男性の先生に対してその意識は、むしろ卑屈になるけれど、女性の教師には上からものを言って、自分の気持ちを相手のせいにされる。
仲良く仕事をすることができず、本当に困った。

たいてい、ちょっと仕事をすれば、あまり仕事をしたくない、あるいはあまり優遇されていない、あるいは敬意を払われにくい側の男性の先生から(まあ、そんなことを言うのは少数派ではあるが。)、

アイツはいいやつやけど、女性としての良さをなくすなあ・・・。

などと言われるのである。いや、実際そうならそれは反省もするだろう。
でも、結構激務な仕事をしていて、そこまで言われるのは難癖に近い。
この表現、ある仕事の内定をもらうときに、大学の先輩からも、他の人の話として聞いた。

そういうことを言っている方が、あまりに器が小さくて、

男性としての良さをなくしている。

と思うけど?だいたい仕事があまりできない人に限って、人の批判だけはうまい。

先輩の非常勤講師の先生から、

○○先生が言うてはってんけど、言ってあげようかどうか迷っててん・・・。

と言われ、だいたい非常勤講師から教諭に、

言ってあげようかどうかと思っててん・・・。

と言うのは、他の職場ではありえないだろうが、そこは私の人のいいところだったらしい。それは周りからも言われていた。

先生が、「わたくしはあなたとは違います。」みたいな人で泣かって良かった・・・。

その話を聞いて、私はどうしただろうか?(笑)
当然、そういうことをほかの女性に言った男性の先生を、一年間完無視した。私の机のそばを歩いてくる時、それを認めた私は、相手の顔を見るや、サッと机の上の仕事に向かった。廊下を歩いていても、絶対挨拶しなかった。今思えば先輩にそこまで下だなんて、つよーいと言うか、怖ーいというか。

あまりに大人げないので、最後の年の最初の日に、印刷室で隣になったので、

おはようございます・・・。

と挨拶した。

あんた、何年目になったかな・・・?

と言われて、

三年目です・・・。

と答えた。
もう長年勤めていて、担任も持たせてもらえないかわいそうな教師だと思われていたみたいなところがあったけど、周りはいつもその話になって驚かれたが、私はまだ三年目だった。

その話し掛けたからのホッっとした感じと、なんや、まだ三年目か?という雰囲気を感じた。
そう、別に冷遇されているのではなくて、まだ三年目なのであった。第一、そういうことになると困る人が一人いた。待ってくれていたのである。つまり、せいぜい期限付きで仕事をしているという塩梅だったから。

他の先生からも、

先生も、学校にいろいろ言いたいことがあるやろうけど・・・。

と言われて、

私、まだ三年目ですけど?

と言ったら、

エッ!?三年目!?

と言われた。

いや三年目の話が多すぎた。

どうも生意気な若手だったと思う。今から思えば。
おそらくはやることはやっていたのだろうけど。(笑)

で、もう一つ、完無視と違う方向から工夫したことがあった。

それは、ならば女性らしくして見たら、仕事が捗るのだろうか?と思い、髪の毛を伸ばし、ウェーブを掛け、それまでパンツルックが主だったのが、フレアースカートを履き、ブラウスを着るようにしてみた。バッグなども気にして選んだ。
別に周りに何も言わせないようにしようとかではなくて、これは生徒に対しての教科指導の入り方をもう少し効率的にしようとしてのことだった。
実質重視から、外見の効用を取り入れようとしたのである。

それには訳があった。
またまた登場する小学校の校長先生の奥様が、この方はご自分が仕事(ボランティア)に来られるときも、バッチリ決めて来られるのだけれど、

先生、先生が生徒から見て素敵だなあ、と思われるようだったら、国語の勉強も頑張るんじゃないかしら?

と、若い娘の将来を案じ、

先生はプライドが高いから上手に言わなくちゃ!

とほかの奥様におっしゃるのを聞いたけど、こちらは婚約者のいる身で、できればそれさえも面倒くさいくらいなのに、そういう余計なことを言ってくれても、それは如何に仕事をするかと言うヒントにしかならなくて、でもとりあえずやってみた、という方が大きい。

それからは、どの本買って読む?という視点から、どういうお洋服を選ぶ?ということに注力するようになった。

やってみた。効果抜群!

これで、女性としての良さが云々が、なくなったのかどうかはわからない。(笑)

ただ、男性の、自分が仕事を一生懸命しなかったり、あるいは自分の能力を勝手に見定めて、誰かの方が○○、などのように、おそらくは脅かされそうになったとき、その相手を、きっと怖いんだろうけれど、あれこれ言う姿が嫌いである。

そんな自分を握りしめる暇があったら、努力しようよ!

潔くできることとできないことをあっさり認めて、毎日ちょっとずつでいいから努力してみれば、塵も積もれば山となるであるし、だいたい、教師などという、言ってみれば聖職についていながら、誰それと比較、競争(いや、いい意味で競争も大事。)、あるいは自意識過剰になって、

自分なんか・・・。

と思ってしまえばおかしくなる。

例えば、二年目、私は大好きな先輩のそばに座っていたのだけれど、

あの二人は張り合っている・・・。

と言われて、寂しくなった。
こういうの、どうかしてほしかった。
いや、張り合うべきだったか?(笑)

ほんのちょっと自分から離れてみる。
ちょっとだけ客観してみる。
そうすれば物事の本質がわかって来るだろうに。

昨日記事に書いた、母の件であるが、母は一生懸命に仕事をしていた自分、若いころの、頼りにされて、上司が病気で出て来れない時に、判断を任されて、あちこち走り回っていた自分が誇らしく思い出されるらしい。
私よりは競争意識の強い人であると思うが、でも、この人は醜い振る舞いができない。

そういうことしたら、自分の心の汚さが見透かされるようで、私絶対に嫌やわ。

と言っている。
張り合っているところを見せるなど品のないこと。誰かのことをあれこれ言うのは、自分がその人よりできないと思っているようで嫌だと思う。もしも、自分が人より劣ると思うところがあったとしたら、余計に頑張って、と思うだろう・・・。

そう言えば、叔父のお嫁さんが、お嬢さん方が通われるということで有名な大学を出た人だった。私が、

おばちゃんのときは、大学、どんな感じやったん?何が専門やったっけ?

と訊いても、

おばちゃんの大学なんて、まゆみちゃん、そんなん大学てえ、名前付いてるだけで・・・。ハハハ。

と言って笑うような叔母であり、従弟、つまりは自分の息子にも、私の大学を思い切り素敵なところとして褒めて語ってくれた。

母とこの叔母は、仲が良かった。
母は進学したかったから羨ましくもあったのかもしれないけれど、それをどうのこうの言う家でもなかったし、また、母は長男の嫁として、家の実際的なことを一生懸命やっていた。同居していたときには、適当にとはいうものの、実務を手伝いもしていたようである。だから、母は別に何を言われる嫁でもなかった。

その年で短大出身だからと言ってそのことを殊更なこととして表現するこちらの叔母さんとは全く違った。
地方だからそういうことが殊更になるのかもしれないが、それよりなにより、私のことをそっち側からの味方られそうになるのには閉口していた。まるで物ではないか。私はバッグではない。いや、バッグほど美しくもない。そういわれるほど期待されても困ったし。性格が違うし・・・。

そういう母を見ていたから、出てるの出てないのと言うよりも、実際的にその家にいて役に立つかどうかが大事だったし、母のことをみんな買っていた。

おばあちゃんなど、母が若いころ母の日におばあちゃんに贈った財布などを持って来ては、

これなあ、あんたにもろたん、わて、大事やからよう使わんとしもうてるねんけどな。今日は持って来てん・・・。

と嬉しそうに大切そうに話していたのを見たこともある。
誰かの痛みをことさら突こうともせず、でも、嫁たちの滑稽なふるまいはなんとも愛情深げに笑い飛ばしていた。

○子さん言うたらなあ、こないだ○○や言うて、○○しててんてえ・・・。

などと話して二人で大笑いしてたのも思い出す。

母がどこが悪いというのを聞いては、私に会ったときにでも、

あんたのおかあちゃん、○○悪い言うてたけど、大丈夫か?

とか、おじいちゃんなども、

○ちゃん、腰痛い言うてたけど心配でな・・・。

などと、舅姑でこれほどかわいがるかな?と思わされた。
だから、母はしょうむない心煩いをすることはあまりなかったようである。

姑の話をするときの、母と私の世界観の違いをどうすることもできない。

でも、できた姑をもった母は、あまり学ぶことがなかったかもしれないし、いわゆる苦労してきた私の方が、スキル面でも、人を見る目においてももしかしたら養ってきたものが大きいかもしれない。

ただ言える。
効率的か効率的でないか。
ちょっとは考えてもよさそうなものなのに・・・。
ご自分たちの利益のためにも。


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