どちらにしようかな?神様の言う通り…
私には恒例の儀式があった。
2つのもので迷ったときには,それらを交互に右手の人差し指で指しながら,
「ど,ち,ら,に,し,よ,う,か,な。か,み,さ,ま,の,い,う,と,お,り!」と唱える。
儀式をするのに特に理由なんてなかったし,
神様の存在も信じていなかった。
数少ない友人に指摘された時も,「なんとなくだよ。」と答えた。
続けて,捻くれた友人がその文字数なら,最初に指をさした方が選ばれるんだと指摘してきても,儀式をやめることはなかった。
今思えば,私以外に,機械的にでもどちらを選び取るかを決めてくれる存在が欲しかったんだろう。
それが神様でも,文字数の背後にある規則性でも,捻くれた友人でも,なんでもよかった。
ただ,あの日から,この儀式は行われることはなくなった。
あの日とは,彼からのメールを受け取った日だ。
彼は,たしか,数少ない友人のそのまた数少ない友人の一人だ。
彼は,たぶん,私の苦手なタイプの人間で,社交的で自信をもっていそうな人だ。
もはや出会いなど覚えてもいないし,想起する手がかりもない。
そんな彼から,ある日,
「今度,ごはん食べにいこうよ。和食とイタリアンならどちらがいい?」
とメールが来た。
丁寧すぎるお断りの返信を打ちながら,
よくあるデート本に載っている古典的な戦略だなぁと彼を馬鹿にした。
その戦略は,古典的というか,姑息なもので,
二択の選択肢を提示すれば,相手はそのどちらを選ぶかを考えて,
そもそも食事に行かないという選択をしづらくなるというものだ。
ただ,1つだけ彼に感謝するなら,これ以降私は儀式をしなくなった。
私は,儀式の弱点に気づいたのだった。
あの儀式で神様の言うことを聞くことで,私は本当の意味で選ぶことをやめていたのだろう。
右手の人差し指を差し出した瞬間,私は二つのどちらかを選ぶことを決定してしまっていたのだ。
いや,正しくは,あの儀式は,迷う2つ以外の選択肢を考えないようにするための儀式だったのかもしれない。
私がアイスクリーム屋さんでバニラアイスか,ストロベリーアイスかを迷ったとき,
チョコやオレンジ,レモン,抹茶に,ナッツ,または,期間限定のよくわからない名前の味に挑戦することを考えないようにする儀式だった。
あるいは,そもそもアイスを注文することをやめて,
隣のドーナツ屋さんに並び直すことを考えないようにする儀式だった。
(まあ,ドーナツ屋さんでもこの儀式が執り行われるのだが。)
私を含めた多くの人が,頭のなかで人差し指を差し出しているのだ。
そのとき,二者択一が私を含めた多くの人の行動を決定していることに注意したい。
もちろん,姑息なアイツの誘いに乗らないとか,そんな小さなことではない。
シェイクスピアは「人生は選択の連続だ」と言ったらしいが,
では,「まず2つに絞れ,話はそれからだ」と言ったのは誰だろうか。
私にあの儀式を行わせていたのは誰なのだろうか。
私自身だろうか,それとも,私以外の誰かだろうか。
まずはそれを,あの儀式で決めねばなるまい。