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第四十話 売れる売人

自分が蒔いた種なのだが、短期間でいろいろなことが急激に変わった。本来組に所属すると事務所当番や雑用等をするのが普通なのだが、私は一応堅気の人間であり、そういったことはしなくてもいいと言われていた。ただひたすら薬を捌いて上の人に金を上納しなければならなかった。薬の売人を管理していたのは、私に助け船を出してくれたイグチさんではなく、その兄貴分になるⅠさんであった。『この人物はこの時から十数年後、全国ネットのニュース全てが報じた大事件を起こした犯人である。この事件はとてもセンシティブな内容であるため書くのは控えようと思う』

Ⅰさんが私に卸していたのは『シンナー(999、純トロと呼ばれる上質なもの)』と『乾燥大麻』、そして、当時人気のあった『金魚』と呼ばれていた覚せい剤をジュースやアルコールで溶いた物であった。シンナーなどは、仕入れ値は一斗缶で数千円である。それを私は一斗缶につき8万円渡していた。私からした兄貴分のイグチさんには一斗缶につき2万円を渡していた。

一斗缶で天然水などのペットボトルで10本程度取れる。ペットボトル1本で、Cビンと呼ばれるもので7~8本取れる。1本2~3千円程度で売っていたのでペットボトル1本で約2万円程度になるのだ。つまり単純計算だと、一斗缶で20万円の売り上げが上がることになるのだ。

もちろん自分たちでヤッテしまう分や、サービスしてしまう分を差し引くと15~6万円程度の売り上げがあった。なので一斗缶に対しての私の取り分は5~6万である。それを月に10斗缶以上売り切るのだから、その辺のサラリーマンと比べても相当良い実入りになるのだ。その他の大麻、金魚を合わせると、兄貴たちに払う分を差し引いても、私は月に100万円は軽く超える収入があった。当時まだ16歳である。私はその組が管理している地域では、売れる売人に成長していた。もちろん覚せい剤やコカインを中心に売っている人と比べてしまえばまだまだ可愛い金額なのだが、私と同じようにシンナーや大麻を捌いている他の売人は、売り上げが上がらないと、Ⅰさんにいつも殴りれていた。逆に私は可愛がってもらっていた。他の業界と同じく同業者同士競争が激しい世界だったのだ。

Ⅰさんやイグチさんはまだ若かったが、当時は今と違って若いヤクザが多かった時代だった。大きな組織の枝の組(大元の組からどんどんと枝分かれしていくピラミッド形式の組が多かった)なんかでは、20代で組長になるというのもそれほど珍しい事でもなかった。私が属していた組は独立系の組で、大きな組織の下部団体ではなかったのだが、私はその街ではもう誰も知らない人はいないというくらいに幅を利かせていた。もちろんⅠさんとイグチさんの後ろ盾があるからというのはあったのだが、年上のヤンキーや高校生も、私に逆らう者は誰もいなくなっていた。私は決してイケメンでもないし容姿が良いという訳では無かったが、よくモテた。当時はヤクザや、不良や、ヤンキーがとてもモテた時代だったのだ。金もあり薬もいくらでもある、ちょっとヤンチャな女の子が次から次へと寄ってきて、大げさではなく私のアパートは女の子が順番待ちをするような状態だったのだ。

Ⅰさんも私の売の仕方や遊び方にはなにも文句は言わなかった。仕入れて私に卸すだけで毎月200万以上の金が入って来ていたのだから当然である。イグチさんも毎月何もしなくても数十万の金が入って来ていたのだから満足そうだった。ただトラブルになった際にはずいぶんと助けてもらった。私はひたすら金を稼ぐ、私に何かあった場合には全力で助ける、という図式になっているのである。私は毎日入ってくる現金のほとんどを自分がヤルための薬を買い、女と遊び、やまちゃんたち気の合う仲間と遊ぶのに使っていた。完全におかしくなっていたのである。その当時私の周りにいた人たちは皆完全におかしくなっていた。薬物と薬物によって得られる金は人間を廃人にしてしまう。若かった私たちはその事にはまだ気付いていなかった。

今回は少し過激な内容でしたが、当時の若いヤクザや不良たちの裏の部分が少しわかっていただけたのではないかと思います。次回は当時の日常の過ごし方などを掘り下げて書けたらと思っています。

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次回に続く

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