8/10 東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』(本の感想)
ぼくは20歳になったころから、自分自身に取り返しのつかなさを感じていた。それは子供扱いされなくなったことへの不安や、中高生のような気分でいられないことへの名残惜しさではなく、親に対してぼくが取返しのつかない存在になってしまったという緊張感だった。親はもうぼくを育て直すことが出来ない。10歳だろうと20歳だろうとそうだろうと言われたらそりゃそうだが、それでも20歳はやはり違う。子はある時期から親にとって子育ての「結果」になっていく。その「結果」はどこかの時点で覆しがたく確定し、ぼくは20歳をそのタイムリミットだと考えた。
ぼくは十分すぎるほど理想的な親に育てられたと思う。だから2020年の10月1日、ぼくが子として20年生きたときに、彼らが親として生きた20年に見合う「結果」になれたという自信がまったくなかった。彼らがこれから何十年かの間、自分たちの「結果」を見ながら「どこで間違えてしまったんだろう」という取返しのつかなさを実感しながら生きてゆく人生を確定させてしまったように感じた。
ぼくが犬や猫だったらこんな取返しのつかなさを感じることはなかったかもしれない。人間は同じ人間に対するそれとは違う愛情を犬や猫に注ぐ。お手を覚えれば良いなぁ、とかそのくらいはあるかもしれないが、どれだけ愛していようが、たとえば「立派な犬になって欲しい」「頼れる犬として相談させて欲しい」「犬にも自分に愛を示して欲しい」とは思わない。
しかし、子供や友人や恋人にはそう期待し、それが裏切られるたびに「もし○○だったら……」と現実とは違う可能性を考える。
人の人生は《かもしれなかった》に満ちており、そしておそらく《かもしれなかった》ことのなかには、それがより遠い仮定法過去になるにつれ、薄れるのではなく逆にその存在感を増し、どれだけ恵まれた現実より輝く性質のものが存在する。「もっと上手く育てられた《かもしれなかった》」という反実仮想もまた、その1つかもしれない。
もし弟や妹がいれば、そちらの子育てをやり直せばまだ良いかもしれないが、残念ながらぼくは一人っ子だ。そして「この現実」に、ぼくは一人しかいない。しかし量子回路を組み込んだコンピュータに繋がれたモニタの彼方には、まったく異なる人生を送る自分がいる。並行世界の自分が「この現実」を主人格として生きる自分の副人格として現れ、人はそれを病と呼ぶかもしれない。
失敗を抱え、《かもしれなかった》に侵された人生に向きあうのに必要なのは、あらゆる並行世界に存在し得る「別の現実」の可能性なのだ。
『クォンタム・ファミリーズ』は、そういう小説だった。
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