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失敗を繰り返して自分を更新する

私の人生は失敗の連続です。

些細な失敗から大きな失敗まで

それはそれは色々あります。

でも、気が付いたんです。

私はたくさんチャレンジしてきたことに。


以前の投稿でお話したように私は発達障害者です。

発達障害で生きる世界は

ひきこもりの世界とはまた違った

異質の辛くて苦しい世界です。


ですが実のところ発達障害で良かったのでは?と思う事もあります。

①場の空気が読めない発言をすること

②周囲の人の目が全く気にならないこと

③得意不得意に関係なく「興味のあること」をやらずにはいられないこと

④人との距離感や言葉選びがバグっていること

これら4つについて

普通の人はマイナスに感じることかもしれません。

ところが私はこう思うのです。

私に不安障害しか無かったら

不安を恐れるがあまり

新しいことにチャレンジすることなどしてこなかっただろうし

人にどう思われるか気にしすぎて

自分の意見をはっきりと人に言えなかっただろうな、と。

小中学生の頃は人目を気にしない言動・行動をとる

我が道を行く「変な子」だと思われてたと思います。

親でさえも理解をしてませんでしたし

友人の数も限りなく少なかったですし

先生に好かれるようなタイプではありませんでした。

しかし、私自身は何のストレスもありませんでした。

相手が親であろうが先生であろうが

上級生であろうが同級生であろうが

上司であろうが先輩であろうが

「こういうことを言ったら嫌われるんじゃないか」

など一切考えることなく

言いたいことを言ってましたし

誰彼構わず本音をぶちまけてました。

「自分の正義」は絶対に曲げませんでしたからw


ようやく本題へ入ります。

今日は何をお話したいのかというと

人は人間関係において

「失敗の数ほどアップデート(更新)されていく」生き物であり、

「本音」を言えなければ現実を生きていくのは難しいというお話です。

前述したように私は発達障害の特性ゆえに

無意識に行っていたことで数々の失敗をしてきました。

友人を傷つけたり、逆に傷つけられたり

わざわざ言わなくていいことを言って親や先生や同僚の機嫌の損ねたり。

ですが、私はそうやって失敗するたびに学んできたのです。

それは意識の中でだったり、無意識の中でだったり。

「あー、この場面では〇〇って言っちゃいけなかったのか」

とか

「あー、こういうときは〇〇しちゃいけないんだな」

とか。

逆に「こうすると話を聞いてもらえるんだな」

とか

「こういう風に伝えると喧嘩にならずに済むんだな」

というのがなんとなくわかってきた気がします。


知能が極端に低くても

少しでも場に馴染むことが出来るよう

頭の中で失敗経験をマニュアル化したということです。


特に10代、20代前半などに

人からどう思われるかを気にして

本音を言えなかったり

嫌な奴だと思われたくなくて

自分の意見を言うことを回避して過ごしてしまうと

年齢相応の失敗体験を踏まずに大人になってしまう。


すると、どうなるか。

自分の経験や記憶が更新されていかないのです。

この弊害がどこでどんな風に現れてくるかというと

歳を取ってからです。

10代、20代の頃の悩みには

「先が見えなくても、どうにかなる」

という将来を想像できる余白と、のびしろがあります。

しかし、ある程度歳を重ねてくると

悩みがどんどん現実味を帯びてきて

「どうにもならない状態」になるんです。

そこでようやく人に相談しようとしても

本音を言い慣れてないがために

年齢相応の内容の相談が出来ないんです。

なので相手に真剣に話を聞いてもらえなかったりします。


じゃあ結局私は皆様に何が言いたいのか。


「あなたがもう〇歳だから本音を人に言うのは遅い」

なんてことを言うつもりはありません。

もちろん説教している訳でもありません。

私ごときからの説教だなんて、

そんなの・・・殴ってやりたいですよね。

もちろん自分の事を良いように言うつもりもありません。

(※以上のように感じた方がおられましたら

不快な気持ちにさせてしまい申し訳ございませんでした。)


話が少し戻りますが

発達障害の特性があったって

私も一人の生身の人間です。

失敗するたび傷つきますし凹みます。

味方してくれる人が少しずついなくなるのは寂しいです。

無視されたり嫌われるのは悲しいです。

仲良くなれたかもしれない人とのご縁を

自分から切ってしまうような言動をしたことに

後悔したことだってあります。

生きていくうえでは、敵は少なく、

たくさんの人に好かれることこそが本望です。


でも言いたいことを言えてきた人生は、

間違っているという事を「間違っている」

好きなものを「好きだ」と言えてきた人生は、

たくさんの人に偏見を植え付けましたが

私にとっては大きな大きな財産となりました。


なので、皆さんにもやってみてほしいんです。

本音を話したり人に何かを相談することは不安かもしれない。

人から傷つけられた経験の多い方からしてみれば

人に心を開くことは容易ではない事もよくわかります。

そもそも慣れてない事をするのには勇気が必要です。

でも、人に自分の事を話してみる価値は十分に、十二分にあると思うのです。

最初は過度に相手に期待してしまったり

勇気を出して話したことに対して

相手から予想外の反応が返ってきてイライラしたりすると思いますが、

相手と自分の会話に意識が向きはじめると

自然と相手の立場に立って物事を解釈できるようになります。

そして、「あきらめられる」ようになるんです。

「〇〇さんだって、なんだかんだ一生懸命話聞いてくれてたよな~」とか

「自分の悩みの解決にはならなかったけど

本音をしゃべることができたのは

〇〇さんのおかげってことかな~」とか。


こんな風にして

「相手への関心」→「期待」→「怒り」→「諦め」

→「共感」→「感謝」→「相手への関心」・・・

のサイクルを繰り返すことで

経験や記憶をアップデートしていくのです。


歳を取ればとるほど身動きが出来ない状況になっていく。

どうにもならない状況に絶望する。

そんなとき、人に悩みを言えたり本音を言えたりすると

「現実を生きる」ということを

受け入れやすくなるのではないかと思います。


人に悩みや本音を言ったところで正解が見つからないかもしれない。

もちろん解決策が必ずしもあるわけでもない。

人は現実に向き合おうとするとき

現実が詰んでいると現実から遠く逃げたくなる。

そんなときに自分の話をできる人であってほしい。

本音を言える人であってほしい。

私はそう切に願っています。


現実を受け入れることは苦しい事です。

それは言わば「自分を肯定して生きていくこと」です。

どんなふうに生きたいか

どんな人生なら諦めがつくか

それらを追求する事は一人では難しいかもしれません。

だれでもいい。

もちろん私にでもいい。

自分なりの「自分の尊厳」を見つけると

今より少しだけ生きやすくなるかもしれませんよ。

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