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短編小説 | 銀河 #1

 女の乳首を間近で見て、その形がまるで銀河のようだと思った。

 思い描くは光の粒が形作る楕円形の集合、その中心には大きな核がある。彼女の乳首はそれとよく似る。

 天也はほんの瞬間、そのように意識を彼方に巡らせたが、撫でる彼女の指先にはっと引き戻されると、その銀河にかぶりついた。

 口先を動かすと、薄い甘酒のような味が広がった。続いて乳児を思った。が、まだこの女の子供とは会ったことがない。それは想像の面影だった。ざんぎり頭に、幼児用のスモックが鮮やかで、日光の下で彩りを見せる。それは保育園の園庭だろう。

 まだ、彼女の胸から乳が出るのは、子が乳離れをしていないためだろうか。ならばこの乳はまだその子のものだった。乳の真の所有者が子供であるなら、その者の不在の間に、自分は乳を借りているに過ぎない。それはまるで間男のようだった。また盗人のようでもあった。

 彼女とは、天也が大学二年生の時に出会った。

 彼女にはすでに社会人の男がいた。そしてほどなく子を授かると、片親となった。それと聞くとすかさず天也は彼女に接近した。それから彼女のアパートに通う関係となった。天也は四年生になっていた。

 彼女は天也に、自分の子を会わせようとはしなかった。それは二人の瑞々しい時間を保つためだったのだろうか。天也には分からなかったが、不服はなかった。むしろ彼女のそんな気遣いに甘え、二年間積み上げ続けた甘い想像を実物に作り上げるように、二人の時間を貪欲に楽しんだ。

 それでも子の面影は、彼女の体のいたるところに現れていた。搾れば出てくる乳もそうであるし、その肥大した乳房、隆起した乳首、下腹に浮き出るあざのような線など、それらの痕跡を見つけるたびに、まだ見ぬ彼女の子の息遣いを、部屋の隅に思い描かずにはいられなかった。そしてその自分が作り出した面影が、行為する母と天也を、じっと陰から窺ってくるように感じられた。天也はおのずと、その面影に祈るように、自分が卒業し就職すれば、いずれその子とも共に暮らそうと、秘かに腹に決めるのであった。

 二人の時間を過ごすのは、決まって彼女のアパートだった。それは外に子供を預けておいて、男と出かけるのが忍びないという心があったのかしれない。また、彼女は自宅勤務を主としていたから、限られた時間の中では自宅で過ごす方が都合良かった。天也もその点に異存なく、そのため、時を経るごとに部屋には天也の私物も増え始めた。子供用品と生活用品が乱雑に散らばる部屋には、ぽつりぽつりと天也の趣味の物が場所を取り始めた。

 その多数を占めたのが機械人形であった。

 人形、と、天也は便宜上呼ぶが、それらは決して、子供がままごとをするような愛くるしいものではない。多くは虫や動物の肢に似ている。よくて人の骸骨を模したような禍々しい様相のものばかりである。

 幼い頃からプラモデルやラジコンの作製に親しんだ天也にとって、それら機械人形の制作は趣味の延長でありながら到達点でもあった。モーターとギア、電池などを組み合わせ、鉄やプラスチックの端材を肉や骨とする。それらはどれも飾り気がなく機械的な動きをして、人形と呼ぶには歪だった。むしろ虫や動物などよりもクレーンやショベルカーのミニチュアに近い。

 とはいえ、人形たちには与えられた仕事があるわけではない。ただ電気が通れば腕を曲げたり回転したりと、設計された無為な動きを見せるだけである。しかしその無為さが、天也には健気で面白く思え好きだった。歪な出来上がりと存在の無意義に、どこか親しみを覚えるのである。

 見栄えが悪く仕事もない人形と、また、それと分かりながら飽きずに作り続ける自分自身と、それらは決して世間に胸を張れるものではない。それと分かるから機械人形を他人に見せることはこれまでになかった。

 しかしある時、毎度のようにグリスや塗料の染みをつけたままの爪先を彼女に問いただされ、隠しようにも嘘がつけず、人形のひとつを彼女に見せたことがあった。彼女の反応は意外なものだった。

「かわいい」

それは人型の針金がお辞儀のような動きをする人形であった。彼女はそれを気に入り、窓下へ飾った。

 それから、天也は新しく人形が出来るたびに彼女の家に持ち込み披露した。次第に人形たちは彼女の家に侵食していき部屋をぐるりと囲むように飾られた。二人は度々、それらの電源を一斉に入れ、部屋中で動く機械を眺めて笑ったりした。また、二人の体がカーテンの閉められた部屋で動き合う中でも、機械人形たちは流動する肉体と呼応するように律動を続けた。

 幸い彼女の子供に機械人形を怖がる様子はないらしく、むしろ母の感性に倣うように、それらを面白がったようだった。自動車や特撮に通じる憧れも相まったのだろう。

「ねえ、戦うロボットって作れる?」

ある時天也は彼女にそう持ち掛けられた。テレビで見た合体ロボットを欲しがったらしい。彼女にはそれを易々と買い与える経済力はないことを、天也も薄々分かっていた。

「でも、かっこいいものは作れないよ」

天也は部屋中の機械人形を見渡した。子供が求めるものはなんとなく分かる。重厚で派手派手しい鎧などの装飾を作るのは不得手だった。

「ああいう、骸骨みたいなものしか作ったことないよ」

人型に近いものでも、骨格標本のように華奢で無味なものしか作れない。どちらかとすれば悪役だろう。

「そう?」

彼女は少し顔を曇らせたように見えたが、すぐに笑顔を戻した。そしてそれきり催促はなかった。

 しかし天也の方は頼まれた手前、全く別の物を作っても、どうも彼女に見せるのが忍びなくなった。彼女の力になりたい気持ちもある。子供を喜ばせたい心もある。いっそ、できなくてもそれらしいロボットを作ってみて、不格好でも見せてしまった方が胸の枷も落ちそうに思った。

 いざ作り始めてみると気持ちが入った。こだわりも次第に帯びる。いつもは端材だが、よりよいものをと材料を買い求めた。金をかけるとそれだけ完成に執着する。つい彼女と会うことを伸ばし、また完成してから会いに行こうとも決め、寝食も怠るほどだった。

 半月ほどかかって一応は完成した。正義の味方らしい鎧は出来なかったものの、三〇センチほどの、やはり骸骨のような機械人形が生まれた。可動部は首、肩、肘や膝など、大まかな関節だが、天也にとっては大作であった。そして一番の見どころは、片手に携えた銃を構えると、銃身が光るところである。

 出来上がった機械人形を前に、天也は彼女のアパートを訪れるべく連絡を取った。深夜だったが、彼女は起きているようだった。

 顔を出さなかったことを詫びながら近々会いたいと告げると、彼女は存外上機嫌で、酒を飲んでいるらしかった。抱えている仕事が山場で、子供は実家に預けているらしい。それも峠が見えたから、久しぶりに一人で晩酌をしている。いい時に連絡をくれたとのことだった。

「なんなら今から来る? 一緒に飲もうよ」

天也は訝しがった。子供がまだ乳を飲むなら酒は厳禁ではないのだろうか。と、そう聞くと、

「大丈夫。あの子、もう飲みたがらなくなったから。」

彼女の声はどことなく沈んだ。続く言葉もない。天也も押し黙った。まずいことを言った訳ではないだろうが、しかし、久しい恋人同士の会話で子供を出すのは不躾だったろうか。そんな風に思ううちにも、どこか、二人の高揚も、失われていくような気がした。

「……いいよ、もう遅いし、明日来てくれれば」

彼女の言葉に冷たさはない。が、静けさがあった。つまらないことを言ったかと少し悔いたが、失態だとしても明日、機械人形を見せれば取り返せるだろう。天也は努めて優し気な声を作った。

「うん、そうするよ。君も仕事続きで疲れているだろうから、お酒もほどほどにして早く寝たら」

「そうする。ありがとうね。それと、人形も」

「うん。じゃあ、また明日。昼前ぐらいに行くよ」

「待ってるね」


 呼び鈴が、乾燥した午前の日和に響いた。返答はない。

 もう一度、呼び鈴を鳴らした。天也の背の、アパート脇の植え込みではツツジが花盛りを迎え、蜂の翅音が扉の前まで煩わしく届いていた。それが今にも首筋にとまりそうな気がして、どこか差し迫られるような焦りを感じた。

「飲み過ぎて寝坊かな」

背の虫を払うように微笑んだ。その時翅音の一つが天也の耳の裏をかするように通り、体がぶるっと一つ震えた。同時にドアノブへ手が伸びた。ドアノブは軽く、微かに手前へ動かせる。鍵は不思議とされていなかった。

 中は陰り、静かだった。

 ドアを後ろ手に閉めればなおさら静寂に、そこに不在であるような冷たさがあった。

 足を踏み入れれば、いつものリビングに、彼女の体があった。

 胸が痛むほどに、心臓は激しく脈打つが、それは予期せぬ光景があったためであって、現状彼女が自宅にいるということには変わりなかった。約束の半分ほどはすっぽかされたような気もするが、残りの半分ほどは健気に守られている。彼女は天也を迎え入れるために、鍵を開けておいてくれたのだ。

 天也は無重力に投げ出されたような浮動を感じると、同時に心も、焦りと緊迫と、諦めと愛おしさと、それらどれもが体と同じように、昼前のほの明るい部屋に浮き漂うような感覚に陥り、結果平静にとどまった。

 あらためてその体に触れると、すでに彼女が欠けていることが否応なく分かる。柔らかくも冷たい皮下脂肪や、関節の硬直、そして何よりその表情に、はたと誰であるかも分からなくなるほど、個人を宿す色はない。頭を持ち上げると、石塊のように重たくなっていた。

 襟元の肌に、細長い傷がある。

 服を開くと、胸元の平地に花が開いたような、放射状の掻き傷が残されていた。痒みがあったのだろうかという疑問の余地なく、自傷の衝動に繰り返して爪を立てたのが、その傷の数と長さで分かった。まるで胸を掻き開こうとするように見えた。

 開いた服の両襟は、重力に伴って彼女の体を滑るように大きくずれ落ちた。それと共に、彼女の二つの乳房があらわとなって天也の目に入った。その先端に、天也は二つの銀河を見た。固く冷たくなった銀河は、それぞれが別の重力を持つように天也の目と、意識を引き込んだ。乳房の先に、乾いた乳の跡がきらきらと光る。銀河はゆっくりと渦巻き、時間すらも吸い込んでいくようだった。

 天也は固まった腕の関節を、さび付いた機械を動かすように力を込めて折曲げた。

 そのころ、遥か彼方の別の銀河の裏側で、ある機械兵士が目を覚ました。(続)


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