見出し画像

短歌を「持ち運ぶ」たのしさ

文・短歌・写真●小野田光

歌集を出版したことで、いくつかのトークイベントをやらせていただくことになった。東京国際映画祭プログラミングディレクターの矢田部吉彦さんとの「短歌、映画的」というイベントは、企画段階から本当に楽しく、来てくださった方々からもご好評いただいた。短歌にはこれまでほぼ関わりのなかった矢田部さんからの短歌についての率直な質問が新鮮で、本番もあっという間に時間が過ぎていった。
 矢田部さんはとても実直な方なので、イベント前にわたしの歌集『蝶は地下鉄をぬけて』を読み込んできてくださり、イベント本番やその前後での会話の中で、歌集や一首ずつの歌について解釈などを丁寧に熱くお話しいただいた。とてもありがたかった。
「いやあ、短歌、あまりにも面白くてハマりそうで怖いなあ」
   何度もそうおっしゃていた矢田部さんの目がとても真剣で、わたし自身うれしくなったことを思い出す。
   矢田部さんと同じように、初めて短歌に触れるという方々から、「短歌の面白さってどこですか?」「どういうところをたのしめばよいのですか?」というお尋ねをいただいたことも何度かあった。そう言われてみると、わたしはどうして短歌をたのしみ続けているのか、深く考えてこなかったように思う。
 でも、そんなに深く考えなくても、いまのわたしはその理由をいくつか思い浮かべられる。そのうちのひとつは、短歌が脳内で持ち運べるサイズだからということだ。たくさんの好きな短歌を記憶してどこへでも持ち運ぶことは、とても素敵なことだ。単純に、短歌は短いから覚えやすいし、細かい表記まで完璧に記憶できる。いつでも取り出せる。これはたのしい。だから最近は「短歌のたのしみ方のひとつは、持ち運べることです」と答えている。
 文芸の「芸」たる所以は、一文であるいは文章の塊で、わたしたちに魔法をかけることができるってことではないか。そういう意味では、短歌はわたしにぴったりだ。以前書いたように「ストーリーなんて知らない」って感じのわたしは、もっと一瞬っぽい文の芸が好き。短歌を持ち運んでいると、いつでもどこでもそっと芸の恩恵に預かることができる。
 たとえば、つまらない会議中に目の覚めるような熱い短歌を一首、疲れて気分が上がらないときにたのしい短歌を一首、よろこびを浴びるように感じながら祝祭の歌を一首思い出す。このようにして、豊かな時間がつづいてゆくのだ。
 みなさんにとっても、そういう時間が増えればいいなと思って、おせっかいだけれど「もちはこび短歌」という投稿をInstagramで始めてみた。わたしが脳内に保存して持ち歩いている歌を、その歌を思い出した瞬間のことを含めて紹介している。そして、紹介することによって、わたしもまた好きな短歌に再会してはうれしくなるのだ。

遠征のバスで読みたる葛原は猛者たちの鼾轟々と浴び(歌集『蝶は地下鉄をぬけて』より)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?