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高田渡のいる世界

文・短歌・写真●小野田光

 大学で歴史を専攻していて気づいたことがある。歴史好きの人は大抵の場合、百年以上は昔、いや数百年から数千年前の世界に興味を覚えるらしい。だから現代史は人気がない。不思議だ。あんなに面白いのに。
 1974年生まれのわたしは、自分が生まれる少し前の世界に惹かれる。60年代後半から70年代前半のことになると反応してしまう。例えば学生時代に親しんだ音楽。当時流行っていた小室サウンドには目もくれず、70年代前半にかけてのフォークソングをひたすら聴き込んだ。洋楽だとピーター・ポール・アンド・マリーを中心に、邦楽だとフォークはひと通り聴いたけれど、高田渡の魅力に気づけたことはほんとうに良かった。あの人はすごい。すさまじい。映画だと「男はつらいよ」シリーズの初期のものが好きだ。わたし自身はまったくのノンポリだけれど、どういうわけか60年代末期の学生運動に興味を持ち、小熊英二の『1968』上・下(新曜社)の分厚い二巻本を夢中で読んだりもした。
 自分が生まれる少し前の世界に感じる現代史特有の面白さ。それは「手が届きそうで届かない」ということ。わたしはそういう状況に憧れと不思議な親しみを感じる。自分が生きてきた時代と地続きだから、まったく理解不能ってことはない。でも、その時を生きたわけではないから、詳細な手触りまでは絶対にわからない。そのもどかしさがいい。浪漫だ。
 わたしは想像力に乏しいので、大昔のこと、例えば平安時代のことなんてまったく思い描けない。和歌を理解したつもりになんてなれない。歴史好きの人々の多くが大好きな「京都」のことでいうと、わたしにとっての歴史のリアルさは二条城の大政奉還の人形たちにはない。あれは何度見ても楽しいけれど、決して真に迫る想像を喚起してはくれない。将軍のことも諸藩重臣のことも知らないから、彼らの生の切迫感はわからない。一方、同じ京都でも、イノダコーヒーはリアルだ。高田渡の名曲「珈琲不唱歌(コーヒーブルース)」の舞台となったあの「三条堺町のイノダっていうコーヒー屋」だ。京都を旅行し、初めてイノダの店内に足を踏み入れた時、この曲が発表された71年の世界を想像できた気がした。現代史の喜び。高田渡と話したことがなくても、それはわかる。生きて唄っていた高田渡とリアルタイムでその唄を聴いて反応していた人々を、私は知っているから。
わたしが生まれる少し前の世界。それは両親を含め、わたしの年長の知り合いたちが、すでに何かを思考していた日々なのだ。

(初出 「半券」vol.1)

憧れはわたしが産まれるちょっと前 夏には蟬が鳴いたとしても / 「ねむらない樹」vol.4  連作「日和見日和」より



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