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現実は、時にやさしい

 1月8日に、映画『春原さんのうた』が封切られる。素晴らしい映画だ。素晴らしいとしか言いようがなく、それをうまく書くことができないから素晴らしい映画なのだけれど、でも、この映画についてわたしは書きたい。
 なので、この映画を観て、そして今までに思ってきたことを書かせていただきたい。
(ネタバレどころか、映画の具体的内容にはまったく触れないけれど…)

 『春原さんのうた』の監督である杉田協士さんとは、杉田さんの前作『ひかりの歌』の興行の際に、上映後のトークイベントのゲストに呼んでいただいたり、これまでも交流があった。そのためか、杉田さんから『春原さんのうた』の初号試写にお招きいただいた。初号試写とは、完成後初めての上映のことで、厳密には「これで本当に完成なのか」というチェックをする場でもあることが多い。その映画に携わった方々にとってのとても大切な場に、部外者のわたしが紛れ込んでいいものかとても迷ったけれど、ドキドキしながら、畏れ多くもこっそり混ぜていただいた。
 正直に言うと、ドキドキの理由は実はもうひとつあった。
 この映画の原作は東直子さんの次の短歌一首だ。

転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー


 この歌が収められている『春原さんのリコーダー』(本阿弥書店、1996年/のちに、ちくま文庫、2019年)は、わたしがこれまでで一番読んだ歌集である。もっと個人的なことを言わせていただければ、わたしが短歌と深く付き合うようになるうえで、とても大切な一冊だったのだ。そんな大好きな本の中の一首が映像化されることはすごくうれしいけれど、ファンとしてはやはり心配なものなのだ。大ヒットコミックが映画化されると、たくさんのその漫画のファンたちが一喜一憂し、ついには「作品の世界観と違う」などと落胆する(時には怒りの声をあげる)ことがあるが、杉田監督にかかればそんなことはないとは思いつつ、そしてどんなにすごい映画になることだろうと想像もつかない期待感を抱きつつ、やはり「春原ファン」としてはドキドキはしてしまう。昨年の2月の終わりのことだった。
 初号試写を観終わったわたしは、とてもウキウキした気持ちでひとり渋谷の街を歩き、試写会場近くの大好きな台湾料理店に行き、ビーフンを食べながら『春原さんのうた』について静かにいろいろと考えた。すごくいい映画だった。杉田監督が『ひかりの歌』で4首の短歌からそれぞれひとつずつ4つの短編を生み出し、それをオムニバスの長編として見事につなげた手腕は『春原さんのうた』でももちろん生きていた、と感じた。『ひかりの歌』は一首につき数十分だったけれど、今度は一首で2時間の作品なので、その分「余白」も多いように思った。それが『春原さんのリコーダー』にある「余白」とぴったり符号していて、勝手にうれしかった。ビーフンは確かにおいしかった。
 でも、この「余白のぴったり感」をうまく言葉にできない。なので、杉田監督が試写後すぐに送ってくださったメールに、なかなか返信できなかった。結局、返信するのに2か月もかかってしまった。
 今でもうまく言葉にできないけれど、ぼんやりとこんなことを思っている。
 わたしが『春原さんのリコーダー』で一番好きなところは、多くの歌がものすごく現実的だけれど、でもそれは普段は気づかないような現実で、そして、それは絶対に気づいたほうがいいということを思い出せるところだ。言い換えれば見過ごされている現実。もっと言い換えればそういうマイナーな現実は、仕事の成果などメジャーな現実ばかりを見つめている眼には、とてもやさしい。この歌集を読めばいつだって、そのやさしさに触れられる。特にわたしが好きな一首を。

真夜中をものともしない鉄棒にうぶ毛だらけの女の子たち


 鉄棒は昼間だけに存在しているわけではない、ということを思い出す。誰もいない、擬人化すると誰も構ってくれない真夜中にも鉄棒は生きているのだ。わたしたちは概念としてはわかっていても、そのことを実感することはまずない。そして、鉄棒で遊ぶ女の子たちはみんな人知れずうぶ毛だらけなのだ。確かに。誰もが見ない現実を見る眼差し。真夜中の鉄棒も、女の子たちのうぶ毛も、そこにあるのに忘れられ、なぜか世界から失われていったもののように思えてならない。そこに向けられる眼差しこそ、わたしはやさしさだと思う。
 やさしさというと気恥ずかしいが、人はだいたいやさしさに触れることを望む。映画『春原さんのうた』にもそのやさしさが満ちている。さっきの逆の道筋をたどれば、それだけ、やさしさの分だけ、現実が、見過ごされがちな現実が詰まっている。その現実は、東さんの原作短歌から広がって、映画の中に杉田さんが定着させたもの。エピソードや場面などの具体は、東さんが『春原さんのリコーダー』の短歌で描いたものとはもちろん違うけれど、杉田さんが作り上げた「余白」は原作の短歌にぴったりだ、とわたしは思ったのだ。それは、失われたものを埋めずに、そのままにしておいてくれる「余白」でもあると思っているのだ。
 日本で上映されている映画には、これほどまでに余白を楽しめる作品はなかなかないと思う。東さんが詠んだ一瞬から、そこに描かれていない1時間59分59秒の余白が生まれた。わたしにはとても現実的な、あまりにも現実的な2時間だった。現実は、時にやさしい。

文・写真●小野田 光


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