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僕の抜けないトゲと原点 【大学卓球】

僕の社会人としての原点は、大学体育会卓球部で過ごした4年間にある。充実した4年間だったし、今でも「もし卓球部に入る決断をしていなかったら人生どうなっていただろう」と想像し、身震いすることもある。

一方で、後悔・反省の多い4年間でもある。社会人になる前となった後で、「努力」の量がケタ違いに跳ね上がったが、それは全て大学時代の苦い思い出によるもの。

ずっと言葉にするのを躊躇ってきた「後悔」について、漸く文字にしてみたいと思う。

デブがどうして体育会に

大学時代について語る前に、背景を少しでもイメージいただくため、大学に入る2005年までの18年間を超速で振り返ると以下の通り。

1987年2月 生まれる
1996年頃  とても可愛いと評判で、モテ期3回を使い尽くす
1998年   受験勉強でとても太る(小6)
2005年迄 太ったまま人生が続く。スポーツとは無縁。ハードル走は避けて走る

なんと「体育会」という響きと無縁の経歴だろうか。小6から高校が終わるまでの7年間という、とても大事な期間を「脂肪」と共に生きてきたので、色んなものを逃したモラトリアム期間だった。女性と喋ることはない。

一方、高校時代、太った僕をみかねた父が卓球を教えてくれた。卓球は「回転」という要素が非常に重要なので、運動が苦手でもちょっとなんとかなった。県だか市だか郡だかの中学生チャンプ?だった父に勝てるようになり、ちょっと真面目に取り組むようになった。

その後2005年に慶應義塾大学(以下、KO)に入学したが、その時点で実は

まずい、このままだと人生終わる

という明確な認識があったので、大学で何としても人生のレールの向きを変えたかった。なので、オリエンテーションの日にそのまま体育会卓球部の見学に行き、道場に入れてもらった。その時の光景は今でも覚えてる。

うっま!!!!!!!!!全員プロ!????

と勘違いした(嘘みたいな話だが、ほんと)。その中には、ほぼ大学から始めた選手もいることを聞かされ、その日に入部を決意。

この時の決断をした私を、今でも褒めてあげたい。間違いなく人生最良の決断。今でも良く決断したなあと思う。

一生忘れない、同期の言葉

同期は自分を除いて男6人、女1人の計8名。その中でもまあビリの方だし、全体で見たら信じられないくらい下手。「部内卓球実力偏差値」を測ったら23くらいだっただろう。

関東の大学卓球には「関東学生リーグ」が春と秋にあり、ここでの活躍・昇格を目指すのがベース。KOは3部上位にいて、スポーツ推薦を取っていない大学としては一番上くらいのポジションだった。

1年春の雰囲気としては「3部優勝は当たり前、2部への入替戦がヤマ場」という感じ。が、結果3部リーグで負けてしまい、2位という結果に。この後に道場で開かれた「部内MTG」を一生忘れることはないだろう。

部長が、一年生から順に「敗戦の理由」について聞いてきた。僕や、僕と同レベルの同期は「油断があったと思います」とかなんとか、ほわっとしたコメントをした。レギュラーの勝ち負けなんて自分にはどうすることの出来ないものであり、自分はただ「怒られないこと」だけを考えて日々を過ごしていたから。

そんな中、のちにキャプテンとなる川西(いい話なので実名で)がこう言った。

・前から思ってましたが、僕の同期は本当に最悪だなと思います。
・どうして、「自分が弱くて、自分が出て勝てなかったからチームが負けた」というコメントが出て来ないのか。理解ができない。
・今回チームが負けたのは、僕が弱かったからです。

その瞬間は、冒頭の「同期が最悪」というコメントが突き刺さり、「はあ!??」と思ってプンスカしてたのを覚えている。

しかし、当時川西も実力的にはレギュラーから、めちゃくちゃ離れた所にいた。僕よりは全然強いが、先の偏差値的に言えば34くらい。にも関わらず、「自分が弱かったからチームが負けた」という言葉を心の底から発していた。

この「自責」「自分ごと」の発想が一ミクロンもなかった僕は雷に打たれたような気持ちになり、と同時に自分を大いに恥じた。なんと小さいことばかり考えて日々過ごしていたのだろう、と。

チームの一員である以上、実力で貢献するのが第一義。にも関わらず、レギュラーとして頑張っている皆と自分を、まるで別のチームかのように扱っていた。「同期が最悪」発言には引き続きプンスカしつつも、「自分が強くなってチームを勝たせなければ」という気持ちが芽生えた瞬間であった。しかし・・・

4年間「やり切った」と言えない辛さ

KO卓球部の練習は週6。平日は遅い時間の授業が入らないように設定することが求められ、土日は朝から晩まで練習。最初の1ヶ月で10数kg痩せた。

スポーツを殆どやって来なかった人間からしたら意味の分からないスケジュールだし、そりゃこれだけ卓球やってたらある程度は上手くなっていく。僕より遥かに卓球歴が長い人たちにも徐々に勝てるようになっていった。

しかし、毎年のように強い後輩が入ってくる。上記の経緯もあるので、「チームのためにも頑張らなきゃ」とは思うものの、僕がレギュラーになるためにはその人たちの2倍・3倍の努力をしなければいけなかったし、もっと頭を使って練習しなければいけなかった。

でも、レギュラー陣の果てない背中を追い続けるのは、僕には出来なかった。

いつしか、週6で練習をこなし、大会でそこそこの成績を収めることが目的化している自分がいた。

そして、実務・事務をこなすのは得意だったこともあり、3年秋に選手兼主務に。主務の仕事でチームに貢献出来ている感覚もあったし、またそれが「そんなに実力が伸びなくていい言い訳」にもなってしまった。就職活動も相俟り、恐らく最後の1年間は実力は殆ど伸びていないだろう。

結果、同期からは3人がリーグ戦に出場。4年時には何とか実力で確保したベンチから皆の頑張りを一所懸命に応援した。後輩たちも華々しい活躍を収め、チームはドンドンと成長していった。幹部として、少しはその成長に貢献出来ていたかもしれない。

しかし、卓球に全てを捧げた4年間を振り返って、

これ以上なく頑張ったな、俺。やり切ったな。

と思えないのは、本当に辛い。反省じゃなく、後悔になってしまうとどうしようもない。体育会卓球部に入ったことは後悔していない。人間的には飛躍的に成長できたと思う。ただ一点、「卓球に向き合い切れなかった」という後悔が、太いトゲとなって僕に刺さり続けている。

おわりに

今でも散歩していたりすると、4年間の記憶がフラッシュバックします。人間にはノスタルジー機能があるので、過去の思い出はドンドンと美化されるはずです。

でも、僕にとっては今でも後悔の思い出。「なんであんなに頑張れなかったんだろう」。そう思ってしまいます。

それまで、中学受験も大学受験も第二志望校入り。勉強でも運動でも、「やり切る」ことが出来ませんでした。

この過去が、22歳に商社に入ってからの「とことんやり切る」「すべての仕事に120%のOwnershipを持つ」という姿勢に直結していると思いますし、そのお陰で成し遂げることが出来た仕事、生まれた素敵な出会いも沢山あります。

過去は変えられないので、「そこまで引っくるめていい経験だった」と思うようにしています。

今までで一番情緒的なnoteを書いてしまいました。でも、なんかスッキリした気持ちです。折角東京五輪でオフチャロフが有名になったので、今後周囲の人と卓球をするときは、全弾オフチャロフサービスでいきたいと思いますので、是非皆さんやりましょう笑

P.S. 言ったことがあるかどうか覚えてないけど、川西、感謝しているよ。今でも。

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